先日、ギャンブルレーサーの田中誠さんのお宅にしれっと2度目の訪問をした。前回、また来てくださいと言ってくださったので、それならばと本当におしかける素直なおじさんの私。大変歓迎していただき、せっかくなんでということで、第17代競輪王の桜井久昭さんや、その他、選手OBの皆さんまで呼んでいただいた。元プロスポーツ選手の飲み会のペースに、生粋の文化会系がついて行けるはずもなく、久しぶりに酔いつぶれてしまったのだった。せっかくの面白い話も、翌日にはかなり抜けてしまった。でも楽しかったからええか。桜井さんのべらんめぇ江戸弁のトークがめちゃくちゃ面白かった。あれほどの江戸弁を話す人と初めて会ったかもしれない。「てめぇ、このやろ」ってホンマに言うんですね。笑って、ある種のツッコミとして。それだけでめちゃくちゃおかしく、笑い転げてしまった。大阪に初めて遊びに来た人が、飲み屋で交わされる会話を聴いて、全員漫才師かと思うみたいなものかもしれない。他の元選手の皆さんの話も面白かったので、思い出して、また書きます。
今回ちょっと書いておきたいのは、田中さんに聞いた話。これはおととしの訪問の時にもうかがった内容だが、あらためて「広報」って何かということを考えさせられる話である。田中さんが『ギャンブルレーサー』を連載し始めて、ちょっと話題作になり始めた頃、日自振(現JKA)から食事に招待されたそう。行ってみると高級料亭で、背広を着た職員が何人も来ていたらしい。20代でそんな場所行ったことなどなかった田中さんには当然すごいプレッシャーだった。要はこっちが言う通りに描くように、という意図を込めた接待であった。好きなように描きたい、と向こうの要求を拒否した田中さんは、以降、振興会から協力は受けられず、背景に使うための競輪場の写真まで自分で撮りに行かなければならなかったそう。表現者としてのプライドを守った田中さんは立派だと思うし、だからこそ、『ギャンブルレーサー』は別格の名作なのだ。
ただ、この話を聞くと、やはり対照として「タイアップ・広報作品」のことが頭に浮かんでしまう。普通のドラマトゥルギーで、他のスポーツの代わりにただ競輪を舞台にしてマンガを描くというのは当然可能で、それなりに読めるようなものになるのだろうけど、やっぱりそこには競輪の面白さはない気がするし、マンガとしての面白さも格段に下がる気がする。「広報作品」はそういうものとして楽しめばいいのだろうが、やっぱりそれらを、プライドを守って生み出した作品と同列に並べるのは、違うだろうと思う。
今、ガールズケイリンのPR用に「リンカイ~」という美少女アニメを作っていて、実際のレースでもPRに使っている。競輪の宣伝をしているのか、そのアニメの宣伝をしているのか、よくわからないし、実際にどれだけのお金を競輪側が出しているのかは知らないのだけど、全体の構図に歪んだものをどうしても感じてしまう。昔から、競輪は広報が下手だと思うが、実際に女性がプライドをかけて戦っている競技世界を、(おそらく「ウマむすめ」とかからヒントを得て)「美少女」の世界として描くことはやはり一線を越えてしまっているのではないか。作り手側が勝手にそういうのを作って、それを競輪側が「まぁ広い意味で宣伝にはなるしええか」と許可している、くらいなら何の問題もないが、たぶん違うだろう。
競輪マスコミは全体として、JKAが大スポンサーのため、その方針を批判できないという構図がある。それを何とかしなければいけないが、せめて外部の人間は、「こういうのはダメですよ」と声をあげ続けたい。
何がどうダメなのかについては、一応社会学者としての視点もまじえて、そのうちちゃんと書きたいと思います。中途半端だけど、今回はこんなところで。