トランスジェンダー、ラディカルフェミニズム、リベラルフェミニズム
(読んだ本の都合上、前稿ではジェンダーフェミニズムと呼んでいたものを今回はラディカルフェミニズムと呼び変えます)
ラディカルフェミニズムについて考える上でトランスジェンダーは鬼門なのではないかと思うようになりました。ラディカルフェミニズムの論理では基本的に男女の二元論を取ります。女性は生まれた後、社会に仕組まれた抑圧機構によって男性に従属するように仕向けられます。ラディカルフェミニズムはこの社会の抑圧機構を暴き、変革を促し、女性を目覚めさせることにより女性の真の解放を目指します。ラディカルフェミニストにとって、社会的な性別としてのジェンダーは男性の支配的な性役割や女性の従属的な性役割であり消滅しなければならないものです。この論理によって前提されているのは一つには社会の抑圧機構は非常に強力なものであるということです。個人では抗うことが出来ず、女性を真に解放するためにラディカルフェミニストは団結して抑圧に対峙し世界を変える運動を起こさなければなりません。二つ目には女性の性役割はひたすらに惨めなものであり搾取されるだけのものであるというものです。従って女性の性役割、女性とはこういうものであるという思い込みは社会から消え去らねばなりません。
トランスジェンダーにとってジェンダーはアイデンティティです。個人が自らが生きやすいようにジェンダーを選び取り、その結果を社会に認知させようとする運動です。LGBTQIA+と呪文のように続く様々なカテゴリーは様々な性的役割をカタログのように提示します。重要な含意は、例えジェンダーが社会による押し付けであったとしても個人の意思でジェンダーを選び取れるということです。女性が嫌なら男性へ、男性が嫌なら女性へ、男性も女性も両方選ばないというのもありです。そんなに簡単なことじゃないと思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、最近では投薬や手術も必要なく、本人の宣言だけでトランスであることを認めるべきというのが主流ですし、本人がどんなに思い悩んだとしても、あくまでその問題が個人の主体性の範囲にあるというのも事実なのです。ですから自分が抑圧されていると感じたらラディカルフェミニストのように徒党を組んで暴れる必要はありません。自分にあったジェンダーを選ぶことが重要なのです。社会の抑圧機構の強さに関してはそもそもトランスジェンダーの存在そのものがその強さに疑問を投げかけます。もし、社会が生まれながらの個人に対して性役割を完璧に刷り込めるならトランスジェンダーは存在しえないからです。また、男性から女性に転換したトランスウーマンは女性の性役割が悲惨なもの一辺倒ではないことを暗示します。何か良いことがあるからこそ、(ラディカルフェミニズム的には社会的に圧倒的に優位である)男性の立場を捨てわざわざ(ラディカルフェミニスト的には社会的に劣位で虐げられている筈の)女性になっているのですから。
このような問題意識で関連することが書いてありそうな本を読んでみました。
Holly Lawford-Smith: Gender-Critical Feminism
著者は名門メルボルン大学の準教授です。著者によれば現在、トランスジェンダー運動によってラディカルフェミニズムは排他的だと攻撃されています。ターフ(TERF、trans-exclusionary radical feministの略)という蔑称まで付けられ退潮傾向にあるのでラディカルフェミニズムをジェンダークリティカルフェミニズムとして整理し直して運動の発展に繋げようとすることがこの本の目的です。
著者はジェンダークリティカルフェミニズム(名前が長いので以下ラディカルフェミニズムと記載、著者も同じものの言い換えとして使っています)を生物学的女性の為の運動とします。トランスジェンダーとの関係ではトランスマン(女性→男性)は運動の構成要素に入れ、トランスウーマン(男性→女性)は除きます。トランスウーマンを入れているのでトランスジェンダーから排他的だと言われる謂れはありません。
ラディカルフェミニズムが目指す社会は女性が差別を受けない社会です。男性的(抑圧側)だろうと女性的(被抑圧側)だろうと全ての性役割から解放され、女性に対する暴力(家庭内暴力、レイプ、いじめ)などがなく、女性を食い物にする性産業や女性を性的な、モノとして扱う文化のない社会です。
著者は特に性産業の撲滅に熱心なようで、性産業の問題は本の中にも論点として頻繁に登場します。ラディカルフェミニストの通例として性産業従事女性は徹底的に被害者として扱うので性産業従事女性をあらわす単語は一般的なprostitutesではなく、prostituted womenで統一されています(prostitutingではなくprostitutedなところが重要)。また、著者は性産業従事女性の体験など聞く必要はないと断言しています。彼女らは男性社会に騙されているか取り込まれているので彼女らの声を聞いても性産業の論理を受け入れることになるだけです。性産業従事女性が自らの意思に反した搾取を受け悲惨な境遇にあることは各種の統計により明らかなので(このへんで数字がずらずら挙げられます)性産業従事女性が何と言おうと性産業は撲滅されるべきなのです。
ラディカルフェミニズムの目指す社会については私から補足したい点があります。差別や暴力、レイプなどのない社会というと美しく聞こえますが、ラディカルフェミニストはこれらの言葉を非常に広い意味で使います。女性の意に沿わない身体的接触(ちょっと口論になり怒って出ていこうとする女性を思わず引き留めようと引っ張った等)は全て女性に対する身体的暴力または性的な嫌がらせですし、女性が気分を害するような批判や意見具申も言語的暴力に当たります。性的交渉に関しては男性から明らかに女性が誘っていると見えても、後になって女性がその行為を後悔しているならそれはレイプと判断されます。これは一人二人のラディカルフェミニストがそのように言葉を使っているということではなく、ラディカルフェミニストの行う社会的調査はほぼこのような基準で行われています(Christina Hoff Sommers: Who Stole Feminism? How Women Have Betrayed Womenに詳しい)。また女性が自らの望みを叶えられないことがあれば、それは男性社会の抑圧によるものです。男性の抑圧的な論理は意識されないようなものも含めて社会全体に充満しています。その程度を測る指標は女性がどれだけ望んだものになれたのかということになります。家父長的抑圧がなければ女性の望みは全て実現するはずなのです。つまりラディカルフェミニストの目指す社会は女性が文字通りアンタッチャブルでその望みが全て叶う世界です。
ラディカルフェミニズムの構成要素として生物学的女性に限るべきという論理は私にはよく判りませんでした。ラディカルフェミニストは生物学的女性の能力については生物学的男性と同等、倫理的には女性の方が平和を愛し攻撃的でないという点で男性よりも優れていると考えます(ラディカルフェミニストはいつも怒っていて攻撃的に見えますがこれは従属を強要する男性社会へ対峙するために怒らざるを得ないのであって男性社会からの攻撃がなければラディカルフェミニストも平穏を愛していることになっています)。であるならば本質的に優位であるグループの利益を代表する運動というのは社会的正義の観点から考えて疑問符が付きます。既得権益を守ろうとする強力な利権団体による運動などはよくあることですがフェミニズムはそうではない筈です。女性運動が必要なのは女性が不利な性的役割を強要される立場にあるからだという論理のほうがすっきりしており、あくまで重点は女性が強要される性的役割にあるべきだと思います。従って社会に押し付けられたわけではなく自ら女性の性的役割を受け入れたトランスウーマンを除外するのは理解できるにせよ女性の性的役割を放棄することを選択したトランスマンを入れることは矛盾だと思われます。
冒頭に述べた私の問題意識に関しては結局よく判りませんでした。というより著者がトランスジェンダーに関しては深入りを避けている印象を受けました。もっとも論点が近づいたのは著者がトランスジェンダーが社会により広く受け入れられ性的規範がよりあいまいに緩やかになっていけば全てがトランスになるだろうと述べたときでしょうか。その先、性的役割を気分に応じてバッジのように取り換えられるような社会では同時に社会運動としてのフェミニズムも意味を失い消失するはずですがそこまでは述べられてはいませんでした。
著者によれば世の中の多くの人がイメージするフェミニズムはリベラルフェミニズムと呼ばれるもので個人の自由意思を尊重します。著者の好む論点である性産業で言えば性産業従事女性は自らの意思で働いているので救済を考えるならその職を奪うのではなく職場環境や待遇の改善を図るべきという考え方になります。この考え方にラディカルフェミニズムは奴隷のアナロジーで対抗します。いくら個人の自由が重要だとしても他者を隷属させる自由などはありません。奴隷自らが望んでいたとしても関係なく他者を奴隷状態に置こうとする意志そのものが邪悪です。性産業従事女性も本人の意思に関わりなく(ラディカルフェミニストの提示する様々な統計によれば)劣悪な環境で屈従を強いられているので即座に性産業から解放されるべきなのです。
同じ論理が女性を性的な対象として描く表現にも適応されていると私は思います。ある表現を過度に性的で女性をモノ化した表現と受け取るラディカルフェミニストの申し立てに対して、多くの場合、表現の自由が反駁の根拠となっています。しかしながら、いくら表現の自由とはいえ奴隷を揶揄する表現が現代では許されないのと同様だとラディカルフェミニストは考えているのではないでしょうか。自由にも限度があり人間の尊厳を傷つける表現は許されません。その限度をどのようにとるかという話になると結局はそれぞれの感性の問題となってしまいますから議論は平行線を辿ります。
リベラルフェミニズムは自由とは言いながらも自らその自由に制限を課してしまっている点で弱みがあります。(現状に即しているかとか、どちらがより良い社会を構築できるかという観点ではなく、単に口喧嘩の強さという意味での)議論の強さではラディカルフェミニズムの方が上回っているようです。これを崩すにはラディカルフェミニズムが根拠とする男女二元論を無効化すべきです。
そもそもラディカルフェミニストが想定する男性像とは女性を常に性的な対象、下等な奴隷として扱うような人物です。ところが現実にはそのように典型的な人物などめったに存在しません。先の表現の議論に戻るとグラビアや萌え絵などを楽しんでいる人たちは男性としての性的規範に縛られようとはしていません。「男として何をなすべきか」など自分に問いかけることなくただ単に好きなものを楽しんでいるだけです。他者の表現に関してもあまり興味がなく共通の美意識を持つ仲間内で盛り上がっています。ラディカルフェミニストのよく使う言葉に家父長制というものがありますが、これらの人たちは家父長制から最も遠い人たちでもあります。何しろ家父長でいるためには家族を持たなければならないのですから。BLに興じる女性も同様に性規範に従う女性像からはあまりにかけ離れているように思えます。それはトランスの人たちによるクィア文化を想起させます。
これらの人たちは性的役割として男性や女性ではなくトランスのノン・コンフォーミング(non-conforming、男性や女性という性的役割のどちらも担わない人)、またはもっと格好よくジェンダークィア(gender queer、意味は同じ)だと感じます。男でも女でもないのでラディカルフェミニストのいう男が女を迫害しているという図式に当てはまりません。トランスジェンダーは少数者であると位置づけられているので、弱者が強者に対して行う行為は差別足り得ないという謎理論によってもトランスジェンダーの行為に差別性がないことは明らかです。またトランスであると宣言しているということは誰もがその気になれば自分の性的役割を自分の意志で捨てられるということを暗喩します。ラディカルフェミニストに対して「そんなに女性でいることが不便なら女性を辞めればいいじゃん」と言ってしまえる(口喧嘩の)強さがトランスジェンダーにはあります。
日本では同性婚が話題にのぼる位でアメリカやヨーロッパ程トランスジェンダー運動が盛り上がっているようには思えません。しかし、50歳時未婚率が男性で25%、女性で16%を越えている現在、ラディカルフェミニストの規定する性規範に従わない人々は確実に増えています。これらの人たちが社会から迫害され片隅に追いやられ、自身も性規範を満たせないことによる悔恨から病んでいるかというと別にそんなこともありません。趣味の合う仲間や一人でもSNSを活用したりしてそれなりに楽しくやっています。親戚の集まりに顔を出せば流石に嫌味の一つくらいは言われそうですが、「今の人たちはみんなそうだから」と流されることもあるでしょう。これらの人たちはトランスを自認することこそありませんが、その内面においてトランス化は静かに深く進行しているように感じられます。一方できちんと家庭を持ち子供を養育することは社会にとって必要不可欠であり立派な行いであるという認識もしっかりと残っています。ラディカルフェミニズムが主張する、性規範のなくなった社会ではなく、様々な性規範が残りつつ個人が生き方を選ぶ方向へ進んでいるように思えます。男性がスキンケアをすることも珍しくなくなる一方で筋トレが流行り、何より女性のファッションの多様さがそれを示唆していると感じます。このことはラディカルフェミニストが世間からは何だか空回りしているように見える理由でもあるでしょう。
これからは萌え絵に関するラディカルフェミニストの申し立てに対して「表現の自由を奪うな」ではなく「ジェンダークィアの楽しみを奪うな」で対抗してみては如何でしょうか。多くのラディカルフェミニストからは「はぁ?」と言われておしまいでしょうが勉強しているラディカルフェミニストならあるいは少しくらい怯んでくれるかも知れません。