草地踊りのルーツを探る|豊後高田市 郷土舞踊
はじめに
私が2020年に移り住んだ大分県北部にある豊後高田市 に「草地踊り」という郷土舞踊がある。
主な構成要素は、「口説(くどき)」と呼ばれる唄を歌う「唄い手」と「踊り手」で、その他、太鼓と合いの手が加わる。
盆踊りの時は言うまでもなく、踊りの名称に冠されている草地地区では、小学校の運動会のプログラムにも組み込まれ、地域住民も積極的に参加し大変盛んである。
今回、草地踊りについて調べようと思った訳は、これほど地域住民に愛されている郷土舞踊であるにも関わらず、「草地踊りとは何か」その答えが共有されていないからである。
言うまでもなく、伝統芸能は、本来の存在意義が薄れ形式化に陥ると、やがて形骸化し衰退に向かう。
しかしながら、草地踊りは、形式のみが受け継がれながら(地域性・地方政策などの様々な要素が関係しているのかも知れないが)今なお盛んであることは驚きである。その起源の考察を通し「草地踊りとは何か」の答えと熱量の源に近づくことができれば幸いである。
盆踊りとしての草地踊り発祥の考察
盆踊り発祥の歴史と草地踊りの位置づけを参考となる情報を元に時系列でまとめると以下の様な仮説を得る。
【1】始まりは雨乞い
平安時代、雨乞いで雨が降ったことへの感謝の形として唄と踊りが起こり、唄と踊りが一体となった盆踊りの様式の原型となる。
(参考:念仏踊り|Wikipedia)
【2】念仏踊りが発生し拡大(仏教と結びつく)
1207年、法然が宗教上の争いから讃岐に流された際、雨乞いの踊りを見て、セリフとして念仏を唱えるようにさせ、その後、空也、一遍によって広められる。
(参考:念仏踊り|Wikipedia)
【3】盆踊りの発生
念仏踊りの広まりと共に、先祖の霊を祀るお盆の念仏にも踊りが加わる様になり盆踊りとなる。また、民間風習との融合により地域毎の多様性が醸成される。
(参考:コラム|長性院)
【4】大衆芸能としての盆踊りが確立
盆踊りはやがて世俗的な性格を帯びるようになり、各地方の大衆芸能として、現代にまで受け継がれている地方色豊かな唄や踊りが出現し、江戸時代初頭に絶頂期を迎える。
(参考:盆踊り|Wikipedia)
【5】草地踊りの誕生
草地踊りも例外ではなく、上述の盆踊り発展の時期と合わせて、現代に繋がる世俗的な口説きと踊りの様々なバリエーションが生み出されてきたと考えられる。
また、草地踊りの発祥としては、公的なものとして下記がある。
よく知られている様に、徳川吉宗は、幕府の財政再建を目的として、増税と倹約による享保の改革を行なった。
「上米の制(あげまいのせい)」として諸藩に課した献上米と、それを底支えするための「新田開発の奨励」は、農民への負荷が大きく、役所に対する不満が増大したことは想像に難しくない。
そこで、幕府が目を付けたのが、当時の庶民の数少ない楽しみの一つであった盆踊りである。盆踊りを娯楽として広めることで、農民のフラストレーションの緩和を図ったのではないかと推察する。言わば飴と鞭である。
また、草地踊りにおいても、いくつかの地方でみられるように、初盆(はつぼん)を迎える家を周り、その家の前で踊る風習がある。
(豊後高田市立図書館所蔵「草地踊口説集,安藤聎田編」より)
これは、改革のデリケートな時期に、たとえ盆踊りと言えども一箇所に大勢の農民が集まることは一揆へのリスクが生じるため、リスクヘッジとして、集まる人数・場所・時間を分散させるために講じた策なのではないだろうか。
あるいは、役所の様々な取締りの中で、農民が自らが、故人の供養と踊りという娯楽を両立させるため、初盆の家々を踊り歩くという慣習を生み出したのかも知れない。
トップダウンなのかボトムアップなのか、いずれにせよ、農民と役人の利害が合致した合理的な様式に最終的に落ち着いたものと思われる。
口説(くどき)
草地踊りの唄は、口説(くどき)と言われる。
口説は「繰り返し説く」という動詞が名詞化したものである。
(参考:クドキ|Wikipedia)
口説の数、すなわち唄の数で現在確認可能なものは22ある。
(安藤聎田「草地踊口説集 安藤聎田編」より)
その内、現在踊り継がれているものは4つで、名称を「レソ、マッカセ、六調子、ヤンソレサ」として継承されている。
また、唄う順番が歌詞の中で規定されており、レソ→マッカセ→ヤンソレサ→六調子の順に唄い踊る。つまり、4つの口説で一つのプログラムとしてグルーピングされている。
口説の種類
伊勢屋口説(レソ)
順平口説(マッカセ)
おとら口説
政五郎口説(六調子)
島原口説
吉田屋(芳田屋)口説(ヤンソレサ)
およし口説
長四郎口説
お千代義平口説
達也口説
熊本千反畑口説
白金屋口説
石童丸
えび屋の甚句
葛の葉口説
佐倉宗五郎口説
いろは口説
尻取り口説
牡丹長者口説
炭焼小五郎口説
小藤桜次郎口説
甘四考口説
各口説の名称は、唄の中の主人公名であることが多いが、現在踊り継がれている4つの草地踊りの名称から人名が消えた理由は不明である。
ちなみに、レソは、この地方で祭文(さいぶん)を指す。
(参考:豊後高田市の盆踊り唄|夢の浮橋)
祭文は、祭りの際、神の霊に告げる文、または、神式葬儀の時、死者の霊に告げる文とされる。
(参考:祭文|Wikipedia)
盆踊りの起源は神道とも近い距離にあり、お盆の風習を考えれば、そういった名称を冠するのは不思議なことではないが、歌詞の内容からはその意を読み取ることができず、なぜレソと言う名称に置き換わったのかは謎である。
マッカセと六調子は、曲名ではなく歌詞をあてはめて歌う「型」と言う解釈がある。ヤンソレサの曲名の由来は不明である。
(参考:マッカセって何?)
口説の内容は、主に「説諭(諭し)」であり、繰り返し説くことを指す「クドキ」と意味が合致する。
その内容は、道徳心の欠如した人物を主人公として反面教師に仕立て、諭す内容が多く、当時の農民・庶民の道徳教育として一定の役割を果たしてきたと思われる。
また、口説が4つになった理由として、明治政府が1874年に出した「盆踊り禁止令」による影響が考えられる。盆踊り禁止令により、一時は全国的に盆踊りの存在さえ不明なほど衰退したからである。大正末期から再び推奨されるようになり盛んになったが、その過程において、一つの大きな唄としてグルーピングされた4つの口説が、草地踊りの象徴的かつ代表的な存在として復活を遂げたのではないかと推察する。
まとめ
盆踊りとの起源は雨乞いである。それが仏教と結びつき念仏踊りとなり、やがて各地方の風習と結びつき世俗性を帯びて盆踊りとなり定着した。草地踊りにおいても同様の過程を経て発展し、22の口説が生まれた。現代はその内の4つが受け継がれている。
参考文献
安藤聎田(1995)「草地踊口説集 安藤聎田編」草地盆踊保存後援会,豊後高田市立図書館所蔵