僕にとっての責任って何?/脳は料理人

https://adlerguild.sakura.ne.jp/diary/2001/11/05.html

今日これを読んでギョッとしてしまった。
別の大学言ってアドラー心理学勉強しよかなとか、今の大学で研究のモチベ持ちにくいかもと思ってる僕にすごく刺さった。
やはり野田先生は時々(ではないかもだけど)耳が痛いことを言うね。
まあ、lain実況での名越先生もだけどその道のプロは、同じ道にいる人、また入ろうとする人に対してかなり厳格になるよね。
これを読んで、また教師に対して中々辛辣に書いてある「クラスはよみがえる」を読んでたときもそうなんだけど、読み手の感情は誰の責任かというのをふと考えてしまった。
まあ、感情に限らず人生についてもだな。
まあ、自分の中で問うてた時点で答えはある程度明確で、自分のことについては自分に全責任がある(と考えた方が都合がいいし)、他者については状況によるって感じなのかかな。


そもそもの責任って言葉ってなんなんだろう。
英訳するとresponsibilityというように書くことから、与えられたもの、状況にいかにresponseするか、することを引き受けるかを問う言葉と言えるのかな。
自分について使う場合では客観的にちゃんと裁量するものではなくて、個人がどう決心するかが重要なことだと思う。
そこで自分に関わることの責任は、つまり自分が与えられたものについてどう反応するかは、自分が決めていると考えて生きた方がうまくいくだろうなと思う。

しかし、他者については、他者の人生や感情についても自分がどう応答するかというのを問われていると考えないと、なんというかやっていけないというか共同体感覚が持ちにくいんじゃないかと思う。
他者の主体性、目的性や自由を最大限尊重しながらも、自分もそこになんらかの形で携わらせてもらっている、また何ができるかを考える。
ここらへんが責任に関する僕なりの健全な捉え方なのかなあ。

裁判で使われる責任とは大分違うね。
裁判での責任は、なんらかの社会に対して不適切な行いをしたであろう人のその後の行いを第三者が決める上でのものだから、先程のものとはベクトルが真逆だ。
これは元来、適正に定められた(とされる)基準に基づいて、裁くだけの資格を持った人が初めて問えるものだから、相当慎重に扱われなければならない。
少なくとも日常では誰かの責任を問う、誰かを裁くなんてのは無理じゃない?この無理を通したら人間関係に何らかの歪を生じさせるんじゃない?って気がする。
だから僕はこの責任という言葉を自分に対して、もしくは自分を含めた共同体に対してしか、今のところは使わない。

野田先生のブログの話に戻るんだけど、あれを読んで僕が「大学生活や研究についてのやる気や自信がなくなった~🥺」と言っててもそれはしょうがないというか僕の役には立たない発言やなと思う。
こういった発言について、客観的に正しいものもあるべきものもない気がしてて、それやったら主観的に潰しが効くようなもんにしてくしかないやろと。
他者から受け取ったものを、自分にとって役に立つものに換えていく責任を自分で負うようにしたいなとも。
だからまずは自分にとって勇気づけになる、機嫌を取るものとして消化吸収したい。
例えば今なら「研究は大学でやれることをちゃんとやらせてもらおう」とか、「アドラー心理学は気長にマイペースに勉強しよう」とかね。

しかし、自分のやることに対しての、他者のあれこれについてはある程度責任を持ちたいよね。
例えば「お前のnoteで不快になった」と言われたとしても、「知らんわボケ」とは言わずに「不快にしてごめんねー」くらいは言いたいかもしれない。
いや、書いてて迷うな、どう対応するかは、ホントにそのときの状況によるとしか言えない。
ブロックするかもしれんし、何するかわかんない。
でも今何するかわかんないって言えてる方が健全かもな。
常にその時自分が世界から何をするか、自他にとって何が良い選択になりそうかを問われていると考えて、その責任を引き受けようとする姿勢を取るのが適切な気がする。

野田先生が「ポストモダン思想とアドラー心理学」という論文で、仏教学者の佐々木閑という方の話を引用されていた。
「外界からの情報は確実な実在であり、それをもとに、脳が人間独自の解釈法で作り上げるのが科学理論である。喩えて言うなら、脳は料理人である。外部から与えられた特定の食材を自分の技とセンスで調理し、独自の料理に仕上げて食卓に出す料理人だと思えばよい。」
この佐々木先生の発言を野田先生は健全な認識だと言っていた。
この話を聞いて思ったのは、僕は食材を何使うかをちゃんと選んだり、またちょっと使いにくそうでもちゃんと調理してみて、自分の栄養になるようなメシを自炊できるようになりたいんやろうな。
また他者に対しては別に最大公約数に合わせた味のものを作る必要はないとは思うけど、不快にさせる目的でまずいもの例えば露悪的なものは食わせないという意識は持った方がいいとは思ってる。(noteを書く上の話です。)
また、カウンセラーや、良い教師の役目は、相手の自炊のスキルを引き出したり、なんとか自炊して生活していく姿勢を取るよう勇気づけるってことなんかな。

大体こんな感じかな。
責任というものについては一回ちゃんと書いてみたかったから書けてよかったな。
あと、今日読んだ野田先生の論文やブログもちゃんと自分の栄養になってよかった。

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