【小説】いつか美しい思い出になる
これはフィクションの話です。
プロローグ:10年後、同窓会会場にて
google mapが提示した時刻ぴったりに出たのがまずかった。新宿駅は容易くなく、日曜の夕方は尚更だ。とりあえず集団LINEに謝罪の報を入れる。「駅まで来たけど迷ってる、若干遅れるかも」すなわち、定刻に来るという意思はあり、最低限の準備は行っていたという弁明である。方向感覚の欠如だけが落ち度であった、と。幹事からの「了承」と、もう一名からの「自分も遅れます」が一瞬ののち共有される。そこに重ねて誰かからの「今起きた」。世間的にはエリートの出自が寄り集まって、見事なまでの碌でなし集団である。
ようやく西口まで出るが、逆側から歩いてくる人の波に酔いそうになる。他の参加者の姿も全く見つからない。
…「あいつ」、来るだろうか?
前回まではどうせ来ないとたかを括っていたし、もう10年も経つと向こうだってコミュニティの存在も忘れているのでないかと、同窓会のたびにそわそわする気持ちも薄れていたのだが、先週末になって幹事が思い出したように「そういやちょうど帰国したらしいし声かけてみるか」とか言い出したものだから、ここ数日は気が気でなかった。
集合場所に到着したのは定刻に5分遅れてのことだったが、目的の集団はまだ会場内に入店しておらず、ドアの前にたむろしていた。人数を数えながらゆっくりと近づいてみるが、少なくとも「あいつ」らしき姿は見えない。
肺の底からため息が出た。なんのため息かもわからない。
そう、卒業からもう、10年ばかり経つのだ。今更、再会の何を恐れることがあるだろうか。もはや思い出はあまりに風化して、書き留めていたことでもなければ忘れ果ててしまい、あるいは書き残していたものがあったとしても事実と願望と創作が入り混じって正しい記憶かどうか判別がつかない。脳裏に蘇る「あいつ」の顔だって、もうずっと本尊を見ていないのだから、違う誰かと混じり合ったモンタージュを浮かべているのかもしれない。
それでも未だ、あの名前が呼び起こす感傷は痛烈だった。昨日は全く落ち着かず、やり場のない感傷を趣味にぶつけるだけで貴重な土曜日を潰してしまうほどに。
懐かしき碌でなし集団、異性の目のない閉じた世界で狂騒的な思春期を過ごした過ごした愚か者ども、すなわち我らが高校同期の一団に合流する前に、一拍呼吸をおいて、目を閉じる。
10年前の日々の断片が、脳裏を駆け巡る。
1)クソオタクと受験生
僕の数少ない友人のひとり、遠山幸治(とおやま ゆきはる)はオタクである。
受験までに一年を切った、新緑爽やかな四月の午後、教室の隅で薄い本を広げた彼は、上の空でなにかもごもごと呟き続けている。
参考書をひらひらさせながら、僕は何かを言おうとする。勉強したら?、違う。教室で堂々とエロ同人読むなよ、違う。ただ話しかけたいだけだけれど、適切な言葉がでてこない。
「やっぱケモ百合は最高だな…」
「それ、なんの漫画なの」
捻りのない質問には答えすら返ってこない。僕は傍にあった机に軽く腰掛けて、手にしていた参考書を開く。どうしたものかな、と彼のほうへもう一度目を向ける。
虚ろな視線同士が交差する瞬間に、集中力の違いを思い知らされる。彼の視線は線的で力強い。この世ではないどこかにいる「美少女たちの楽園」を見据えているのだ。僕はぼんやりとしながら、参考書を閉じる。
某有名進学男子校。世間では所謂「名門学校」だとか思われているらしいが、我々にあるのは偏差値だけで、あとは野放図に生きている。現に学年トップの成績を誇るこの男が読んでいるのは参考書ではなく同人誌である。
僕はこのまま、あと5分ほどを行くあてもなくもぞもぞと潰し、昼休みが終わるのを待つだろう。それから自分の教室に帰って、退屈な授業が続いて、帰りのHRが終わるなり、彼のいる教室の前で、することもなく佇んで、2分くらい待って、近くの本棚から過去問を、自分の志望校とは全く関係のないような過去問を取り出してなんとはなしに眺め、すぐに本棚に戻し、彼のクラスのHRが終わりそうにないのを確認して、下駄箱へと向かう、いつもの午後を過ごすだろう。まだ、予備校の予習が終わっていないことがちょっと気にかかって、腹部に軽い痛みを覚えながら。予備校が始まるまでの時間外にご飯を食べに行くクラスメイトを横目で見やって、コンビニの冷めたおにぎりを囓りながら。
僕は受験生としての大切な時間を食いつぶしながらささやかな幸せを感じている。マゾヒスティックな快感にも近く。
「遠山、アレゲットしたぞ!」
教室のドアが勢いよく開いて、遠山のオタク友達が入ってきた。遠山の、先ほどまで現実の彼方へと飛ばされていた瞳が輝いて、いきなりはきはきとしゃべり始める。テンションが上がっているのか意味もなくよく動く。クソオタク特有の過剰な動き。
そういえば、遠山はいつも気怠そうにしているけれど、体育の成績は僕よりずっといい。すぐサボるくせに、学年内試合で華麗にサーブを決めて、少年漫画みたいにクラスメイトたちとハイタッチをする。写真部の幽霊部員のくせに。今も妙に反射神経の良さが窺える、反応の良さで友人に向き合っている。
「結局通販やったのかよ、親のカード使えたわけ?」
「なんとか」
僕たちは馬鹿みたいに倦んでいる。6年間ほぼ代わり映えのない面子に、いつまで経ってどこまでいっても同じように今日がやってくる、そのことに飽き尽くして、倦怠が熱を帯びていく。その熱に浮かされて、馬鹿みたいに時間が過ぎる。
夏期講習の予定も、昨日のバラエティ番組も、架空のレズセックスも、同じ口調で語られて、吐き捨てられる。
同士と興奮を分かち合う彼を邪魔するのもなんだか気が引けて、その場にいた別の同級生になんとはなしに声をかけた。
「なあ、百合は知ってるけど、けもってなんだ?……化学?」
「そりゃ流石に違うわ……真(まこと)、そういうのに興味あるの」
「ないけど」
半分嘘、彼の好きなものには何だって興味がある。
授業を適当にやり過ごし、予備校を適当にやり過ごし、集中力の持たない帰りの電車を参考書を形だけ開いてやり過ごし、家に帰ってパソコンを付けて検索して、たったそれだけで全てが氷解するような謎に、変に捕われる身振りを続けて、今日という日が終わっていく。
十分退屈している日々に、後から振り返れば、気が狂ったような刺激で麻痺し尽くした脳内に、強い薬を注ぎ続けるような、今日という日の連続。
高校3年生の日々はずっとそういうものだった。
2)クソオタクと受験英語
木曜朝から二限も続く選択物理の授業中、遠山の座席は僕の二つ前にある。一つ前の友人がトイレに席を立つような休憩時間中、音楽をイヤフォンで流しながら、その背中をじっと見つめる。感傷的な時間の潰し方である。
今日は珍しいことに、気怠そうに教科書を広げる遠山の姿が目に入る。同人誌やイベントやインターネット上の漫画に溺れるずぶずぶのクソオタクと言っても受験生だ、それも所謂超難関校と呼ばれるような類いの大学を志望する受験生であるから、教科書を読むぐらい当然の振る舞いであってしかるべきなのだが、とはいえ、彼はあまり人前で勉強しているところを見せない。
僕は堂々と邪魔をしにかかる。彼の前の座席も空いていたので陣取って、わざとらしく顔を覗き込む。
「なにか、」
「いや、何も」
「はあ、」
「珍しいなって、」
「そりゃどうも」
左耳が痛くなって一瞬イヤフォンを外す。低音の強いコーラスがかすかに漏れ出る。
“Perfectly Euphoria!”
「そういやゆーふぉりあって単語、なんだっけ、この前テストに出たような」
僕が小さく呟いたのに、遠山はこちらに目を向けることなく暫く黙っていたので、聞いていないのか、聞こえていないのか、いつものことだ、と思って、イヤフォンを耳に戻そうとした瞬間、
「元はイタリア語で多幸感」
「じゃあ名詞だ」
怪訝そうな顔をした彼を見ないように僕はしゃべり続ける。
「語学とか好きなの」
「いや、今のやつアニメの主題歌だろ。昔、軽音楽部の助っ人で歌った時、調べたんだよ」
「超真面目じゃん」
「言うほどか?」
妙に噛み合わない。話を別の方向に向けてみる。
「パーフェクトリィ、ユーフォリア、って文章成立してなくないか」
「庄司、おまえ無駄にうっとうしいな」
「受験生だからね」
「it is落ちで強調、副詞文修飾でどうよ、わからんけど」
「お、おお・・・・・・流石は遠山大先生」
「受験生だからな」
正しく進学校の生徒らしい返答だ。彼らしい冷静な言葉だと思う。
イタリア語で多幸感。遠山の淡々とした、それでいて妙に堂に入っている口調を真似て繰り返してみる。今僕たちを苛んでいる、得体の知れない狂乱加減の正体こそが、多幸感なのかもしれない。教室の片隅でプロレスごっこに勤しむ集団、黒板に書かれた気味の悪いイラスト、馬鹿みたいに苦しく馬鹿みたいに幸せに、今もどこからか叫び声が聞こえてくる。
視界の隅、同級生にプロレス技をかけられているクソ真面目生徒会長が懸命に抵抗する様を、クラスメイトたちがけたけたと笑いながら見つめている。どこか箍が外れている。四方八方から飛んでくるボケの連打を、我らが心優しき会長様は、真っ正面から受け止めつつ、見事に捌ききっている。もっとも、当人は必死でやっているだけなのだろう。
こんな毎日の何が楽しいんだ、と思う。大してひねりのない会話でも、大げさなだけで現実味のない下ネタも、ただただ僕たちを突き動かしはしゃがせる原動力になる。
何に駆り立てられているのだろう、と思う。駆り立てられている、というよりは、追い立てられる、という方が正確だろう。数日後に控えた全国模試だろうか。数ヶ月後に控えた卒業だろうか。僕たち、あるいは僕の胸を押し潰していこうとする感傷は何だ。
「庄司、おまえさ、」
不意をつかれて、好き勝手に妄想を走らせていた僕の耳に、重く低い音が、少し尾を曳いてじくじくと響く。顔を上げると、頬杖をついたままの遠山は退屈しきった顔で、投げやりな風で言葉を続けた。視線は遠く窓の外へ投げかけて、僕の方を見ようとはしないまま言う。
「明日の放課後、暇」
食い気味に被さって予鈴が鳴った。
幸せ、はニュアンスが違う。多幸感だ。たぶん、僕は今、あるいは彼と出会ってからずっと、頭がおかしくなっている。
3)サブカルまみれ学園高等学校
「だって君ら、ダサいじゃん」
いつも耳元あたりに爽やかな風を吹かせてそうな、確かサッカー部の級友が、微笑とともに言い放った。時間が止まったみたいだった。
あれは修学旅行から帰りの、新幹線の中でのことだったと思う。遠山とは違うクラスだったから、微妙に親しくなりきれていない、班の友人たちと変な感じではしゃいでいたんだろう。その自覚は全くなかったのだけれど、たぶん、うまく打ち解けることができていなかった。
僕は基本的に、コミュニケーションが下手な方の人種だ。男子校のスクールカーストは比較的フラットだとよくいうけれど、とはいえやっぱりグループ区分があって、当然、修学旅行のようなイベントで幅をきかせてくる。普段仲のいい友人と同じクラスになれればいいものの、班分けの瞬間の、瞬発力が試されるような小さな判断に失敗すると肩身が狭い。
僕は、いつもと違う仲間相手に、ぎこちないはしゃぎ方をしていた。数人にしか伝わらない暗号の編みあわせで、馬鹿みたいに笑い転げていた。渾名とか、決まり台詞とか、なんでも面白いように感じていた。あるいは感じているふりをしていた。
それで変にテンションが上がった僕は隣のグループに「一緒にボードゲームやらないか」と誘ってみたところで、冒頭の一言に至るわけである。僕の引きつった笑いをよそに、正しいクラスメイトは去って行く。同じグループの仲間たちには何も聞こえていなかったのが唯一の幸いだった。
新幹線はまだ名古屋のあたりをひた走っていて、東京まではかなり時間があった。ゲームに興じる仲間たちのもとへ、僕は平然とかえって、変わらずはしゃがなければならなかった。
*
「どうした」
回想を振り切って目を上げると遠山がいる。今日は土曜日で、二人で人形劇を見にきていた。人形劇とは言っても、子供向けのそれではなくて、著名な劇作家が書いたアングラ演劇の脚本をもとに構成されたものだった。
「ちょっと考え事。いや、うちの学校って面白いよなって」
「急に何が」
「右も左もサブカルオタクだらけというか。このチケットもさ、一緒に行く友達がいるっていうのがありがたいなって」
遠山が不思議そうに小首をかしげたので、僕は少し慌てて補足する。
「あ、えっと。九州のいとこと話してたら、オタクの友達がいなくて、萌えを語る相手がいなくて寂しいって」
「そういう意味か。確かに皆月とか近藤とかもこれ、興味ありそうだもんな」
遠山はチケットをひらひら振りながら、合点がいったとうなづく。僕は彼の同意を得ることに成功したが、同時に小さく胸が痛む。
「遠山ってさ、オタクだけど、シュッとしてるよね」
「急になんだよ」
遠山から受ける印象はひとによって結構違う。変なやつだよね、いいやつだよね、意外とシャイだよね、っていうか人嫌いだよね、誰のことも信じてないよね。人見知りを自称するわりに顔が広く、いろんな人と繋がっている。話題が異様なまでに豊富で、機転が利いて、ふだんは怠惰なくせに、ここぞというとき働く。この進学校で圧倒的一位の成績を叩き出し、普段サボってばかりの体育でも催事になればそれなりの活躍を見せ、どこをどうみても完璧超人だが、多くの人が彼を称して「残念な奴」。これだけは満場一致の意見だった。それも彼の、手にした資金の大半を漫画に注ぎ込んでしまう、異常な百合への愛情によるものなのだろう。でも逆から見れば、オタクだけどもスクールカーストの頂点にいようと思えばいられる、そんな男だった。
「なんか僕はオタクじゃないけどシュッとしてないから」
「いや、お前はオタクだろ」
「一般人からみてオタクでも、オタクから見たらにわか、みたいな」
「キャラ付けくらい自分で決めればいいじゃん」
中途半端な言い訳は鋭く咎める、彼の癖だ。僕が言い訳がましいからかもしれない。
「そうかな」
「そうだよ」
真正面から視線を合わせて、遠山は僕の頭を撫でた。息が詰まる。何かがこみ上げてくる、ような気がする。最後にくしゃくしゃと僕の頭をかくようにいじってから、それからいたずらっぽく笑っていた。僕はどこを見ていいかわからなくて、とりあえず乱れた髪の毛の先っぽを摘んだ。遠山はすでに僕の方を見てはおらず、手元のチケットに視線を落としていて、そのままぽつりと呟いた。
「お前がしたいようにすればいいだろ。それで周りがどう思うかは、お前本人の問題じゃないだろ」
僕が何か返事をする前に、もう開演30分前だから座席についておこうと遠山が言うので、二人黙って移動した。それから見た劇の内容は正直よく頭に入らなかった。
*
そういえば、あの修学旅行の翌日にも思い立って、僕は彼と会う約束をしていた。
彼は知らないのだ。修学旅行から帰った僕が、うちのめされた馬鹿な僕が、泣きながらひとり帰り道を歩いた僕が、どれほどあなたと会える1日を大切に待ちわびているのかを、知らないのだ。
だから今も、頭を掻き撫でるその手の感触が、どんな意味を持つかなんて。
4)清く正しく美しく
その年の夏は、苛烈だった。40度を超える気温を何日も記録する東京で、コンクリートから立ち上る蜃気楼の中を、重い体を引き摺り予備校へと向かう坂を上った。日差しはあまりに鋭く肌を焼き、地面から立ち上る熱は粘性を帯びて身に張り付き、ありとあらゆる方向から温度が迫ってくる、強烈な暑さだった。
肩から提げた鞄に、山ほど詰められた参考書の重さも合わさって、予備校にたどり着く前に体力が限界を迎えそうになる。踏みしめる一歩のたび、全身が深く深く沈んでいくように感じる。溶けながら沈んで、広がって、アスファルトに染みこんでいく、液状の自分を想像する。
そんな他愛のない妄想に耽っていると、急に目の前の交差点で車が飛び出してきたりして、瞬時に再び身体が固体に戻る。感覚が外界に開かれる。
立ち止まって車が去った後の前方を眺めれば、同じように肩を下ろし疲れ切った様子の予備校生たちが、長い列をなして、校舎までの道のりをゆるゆると進んでいくのが見える。皆、教務や教員への愚痴やらなにやら、ネガティブな会話ばかりしていて、気怠げにざわついている。
この列全部が、倦怠と疲労と辛苦とに充ち満ちていた。空は抜けるように青いのに、地上の空気は淀んでいた。
先日返ってきた模試はいつも通りの結果だった。悪くはない。とりたててよくもない。超進学校ともなれば、友人たちは平然と順位表に名前を連ねる。最良の判定すら心を休ませない。
「E判定でも受かる人はいる」の後に続くのは、決まって「A判定でも落ちる人はいる」だ。神経症の学生がすり減っていく言葉。
模試を受けているときだけが幸せだ、と思う。現実を離れた精神が、抽象的な空間で疾走する、あの瞬間だけが幸せだと思う。
「庄司、病んでるよな」
模試の結果に細かく一喜一憂する僕を見て、呆れかえったように遠山は言っていた。その右手に抱えられていた本が、参考書だったか同人誌だったかはあまりよく覚えていない。勉強なんて何が楽しいんだか、と言い放つ彼の名前は、今回も成績優秀者一覧表の1枚目1列目にきちんと刻まれている。
それで、この頭がどうかしてるんだ、なんていいながら、また髪を撫でてくる遠山の手の感触を僕は覚えている。僕は病んでなんかない。お前と違って、友達と笑い転げて遊んでいた翌日に唐突に1ヶ月失踪したりしない。その理由を誰にも話さないまま。
ふと我に返ると、後方が静かになったのを感じた。ただ黙った、というのでなく、空気が一変した、といった感じだった。何事かと反射的に振り返ろうとして、車道側を向いた瞬間、風が吹いた。目の前を、すぐそばを、自転車が通っていった。
ぱりっとした半袖シャツの白さが眩しい、制服姿の高校生男子が、自転車を漕いでいた。座席の後ろには、同じく制服姿の少女が座っていた。胸に、水色のリボンが揺れていた。目に染みるような水色だった。少年の表情は見えないけれど、一新に自転車を漕いでいる。少女はどこか物憂げな視線で、遠くを見つめている。
二人の間には言葉がないように思えた。黙って自転車を漕ぐ少年。黙って自転車に乗る少女。風を切ってどこかへ言ってしまう。
それは本当に一瞬の出来事だった。自転車が通り過ぎると同時に、その側の予備校生集団が、みな、息を飲んで黙る。
あっというまに走り去って、予備校生の列が曲がり角で左折して、自転車が直進するその境目で姿が見えなくなってしまう頃に、ようやく、空間が音を取り戻す。
浪人生集団の愚痴の対象は、今度は自転車に向けられていた。目の前の年嵩の男性は、車道に向けて鞄を振り下ろし、地団駄を踏んでいた。彼の隣を歩く友人とおぼしき男性は苦笑しながらも、顔は道の向こう側へと向いたままだった。なんだあのリア充、それに引き換え俺らは。
僕は呆然として、ぼんやりとして、なんだか言葉がうまく出てこなくて、ただ、空を見上げて歩いた。
抜けるように青い空。雲一つ無く、容赦なく照りつける日差しのなかで、現実感を失うくらい真っ白に明るい青空。
脳裏に少女のリボンが蘇って揺れる。空よりも深く、滲んで切なげな青色だった。
少年と少女は自転車の上で寄り添っている、その瞬間、そこには「圧倒的な正しさ」がある。それなのに僕はただ、自分が、アスファルトの上を滞留する薄汚れて熱い大気の、どこかわからないどこかにいる、ということしか、わからない。
日に日に身体がなくなっていくような気がしていた。自習室と教室と自宅と時々高校を往還して、寸暇を惜しんでここではない場所にトリップする。受験勉強は麻薬のようなものだった。
自分がどんどん透明になっていくみたいだった。透き通っていくことは綺麗でも何でもなかった。単純に身体が消えていくだけだ。その一方で、身体を動かす気にもなれなかった。存在自体は不確かなのに、質量だけは増していくみたいだった。
そうして、僕は正しくない青春を過ごしている、という自意識ばかりがどこまでも肥大化していく。
5)青春の証明
しかし、男子校にも「正しい青春」は存在している。あれは去年の文化祭のことだ。
文化祭というのは、この碌でなし学園をキラキラとした目で憧れ見る中学受験生で溢れかえるものである。僕は理系の地味な部活に所属していたのだが、勉強の話題が大好きな真面目な小学生たちを相手にするので大忙しだった。とはいえ、舞台系の部活に比べたら圧倒的に華のない役回り。
とりあえず白衣を着て歩き回り、子供たちの前で他愛もない実験を繰り返すだけのシフトをこなし、もう5年も体験している文化祭なんて今更楽しむこともなくて、関係者控え室に帰ったら、遠山たち一派がアニメ配信を見ていた。隣ではモンハンを嗜む集団がいて、コンセントプラグの取り合いになっている。どうりで関係者以外立ち入り禁止なわけだ。廊下を私服の人間が走っているのが目に入った。大声で性器の名称を叫んでいるからOBなのだろう。
僕は目的もなく校舎内をぶらついて、ときどき会った友人に声をかけ、出店を出している飲食業者の従業員男性が、子供騙しの縁日に挑戦して半ギレになっているのを半笑いで見つめて、それから、もう文化祭も終わり、という時間帯、最後にまだ軽音楽部が講演をやっている、というのを聞いて、講堂へ向かった。兼部している化学部の同期を冷やかすくらいのつもりだった。
講堂は真っ暗で、古い床板を踏みしめる一歩一歩に軋みが上がる。毎週掃除をして、さらに文化祭前には念入りに片付けた……とは思えないほどに埃の匂いがする。音質の悪いスピーカーから、なにがしかの音楽が流れている。軽音楽部の公演に来る人間は内部生が多い。宣伝担当の趣味で、広告がどっぷりサブカル色に染まっているのが、受験生を寄りつかせにくくしている一因なのかもしれない。秋とは言え残暑の厳しい時期に、分厚い暗幕で囲われた空調設備の揃わない部屋というのも、なかなかに敷居が高い。
セットリストを見ると、また選曲がいかにもである。僕は部員の幾人かとそれなりに親しい間柄だったから、大概バンド名は分かったのだが、曲は知らないものもいくつかあった。
外部公演だから、最初は知名度ありそうなタイアップ付きシングル曲をやろう、などといった発想はあるらしいのだが、セットリストの後半になるにつれて、解散したバンドの廃盤のアルバム初回限定曲、みたいな、そのニッチさがらしさでもあった。
暗がりを切り取るように、力強くスポットが点灯した。光の当たった埃がひらひらと舞う中、舞台中央に立っていたのは、遠山だった。
文化祭前日までろくに写真も撮らないこの幽霊部員は、さっきまで写真部の受付で居眠りをこき、かったるいと言いながら屋台の食べ物でなくコンビニのおにぎりを食らっていた、あの遠山が、ステージに屹立して、歌い出した。
あたりを爆音が埋め尽くす。伸びやかなハイトーン、圧倒的な声量と豊かなビブラート、そしてその制御。
表情も仕草も大仰ながら決まっていて、青春を外連味たっぷりに歌い上げる歌詞と、ぴったりはまっていた。僕は開いた口がふさがらなかった。お前軽音楽部じゃないだろ、なんて、誰ひとり野暮な指摘はしなかった。
「深夜アニメの主題じゃんね、なんだっけあれ、ヒーローもののさ、」
「オタクかよって思ったけど、遠山が歌うとかっこいいよな」
知らない同級生がこそこそと何か話しているのが全て耳障りに思えるほど、彼の声の全てに集中したかった。
とはいえ音響設備がしっかりしていないせいか、とにかくバックの音が大きくて、特に低音は響きすぎるほど、全身が振動するみたいに感じた。それでも彼の歌声は講堂全体を満たし、自分の身体全てを包み込んでいた。
4分21秒、僕は具体的なことをなにも覚えていない。途中でベースが転んで笑いを誘ったことも、ギターが踊りまくったことも、後から友人に聞かされた。
わざとらしい青春だ、と思う。なのにどこまでもリアリティがある。僕のような人間は、到底そこにはいられない。
*
余計なことを考えたくない1日は、早々に自習室にこもるのだが、あの二人乗りの自転車を見てしまった日は全く駄目だった。
クーラーの効きすぎる自習室で、僕はひたすら鉛筆を回し続けていた。あたりを支配した沈黙と、少女のリボンの青さが交互に頭をよぎった。こんなときは、僕を見ようとしない遠山の横顔を思い出す、いや、思い出そうとする。こういうときに思い出すべきものだと思い込んでいる、のだと思う。自己弁解を何十にも重ねるその隙間に、青色が風に吹かれて揺れていた。
そうして再びあのアニメソングのイントロが、頭を掠めるようなときなのだ、そう思った瞬間にはもう、耳の底に、ギターが鳴り始める。
6)対話篇
「庄司真さん」
「はあ、なんでしょう」
「男の百合オタクって何考えて生きてるんだろうね」
「何を急に」
中川好実は幼馴染で、僕の唯一の女友達だった。中高一貫女子校に通う彼女はどこに出しても恥ずかしくない腐女子で、時々僕を呼び出し、男子校にリアルBLらしいエピソードがないか根掘り葉掘り聞いてくるのだが、今日は少し調子が違った。
「例えば、例えばなんだけど」
「はい」
「ここに抜群のコンビネーションを誇るスポーツのペアがいるとするね。これまでの試合でも成果を残してゴールデンコンビって呼ばれてる」
「大石のテリトリー…」
「よく知ってるね」
「あなたに読まされたんだよ」
「そうだっけか」
「続けて」
「で、ある大きな大会を目前にして片割れに彼女ができる」
「はあ」
「練習はそれまで通りなんだけど、二人で過ごす時間は短くなる」
「そうでしょうね」
「そのうちそいつが『俺、彼女といても可愛いなって思うけど、どきどきはしないんだ』って言い出す」
「言い出さないよ」
「それで最終的には友人に対し『俺、本当はお前のことが好きだったんだって気づいたんだ』」
「言い出さないって」
「言い出さないの?」
「言い出さない…でしょ」
「要するになんというかな、そういう状況で男は嫉妬するのかっていうこと」
話題の中核に至るまで散々寄り道をしてしまった。僕らはいつもこんな具合にくだらない会話をした。遠山たちとするように。中川との間には決してロマンティックな感情は生まれない。その理由は言わないでもお互いによくわかっていた。
「ないんじゃない?そんなには」
「なんでないの?」
「なんでだろうな…」
ふざけている風でもなく、至極真面目な顔でいうのでこっちもうっかり考え込む。ということは多分、女子校ではそれなりに見られる光景なんだろうと推測する。
一応真面目に考えてみるがあまりいい答えが思いつかない。僕は考えながら、なんとなく近いような答えを返そうと試みる。
「なんか昔、芸人でさ、『プライベートで相方と一緒に飯食べるのは気詰まりだけど、誰よりも相方が気に入るお土産を買う自信がある』・・・・・・みたいな話を聞いたことがあって」
「かっこいいねそれ」
「男子校にもそういうのはあるかな、と思うけど」
「でもさ、じゃあその相方が他の相方といい仕事してたら、嫉妬するんじゃないの?」
「それはちょっと、違うというか」
「違うというのは?」
「うーん、」
「まあいいや、とりあえずBLというのはそういう精神なのよ。女子校の精神といってもいい」
「そ、それは主語が大きすぎるんじゃないかな…」
「して、わたしが気になるのは、男子校の百合のオタクたちはどういうことを考えているのかということ」
こういうことはまさしく遠山が詳しいのだが、彼に聞くのは気が引けた。いつも、彼の心の深い部分に触れるだけの権利は自分にはないと思ってしまうが、本当はそんな大層な話でもないのかもしれない。そうやってまごついているうちに、僕は彼との距離感を勝手に見失っていく。
「なんか百合オタクが友達にいるんでしょ、遠山くんだっけ」
中川は嫌なやつなので、これは何の気なしに聞いているのではなくて、逃げ道を塞ぎにきている。僕は咎める気力もなく、小さくため息をついた。
「…今度聞いてみてもいいけど、その前に中川に聞きたいのは」
「なに?」
「中川がどういうBLを好きかってことと、中川自身の人間関係とか、恋愛とか、そういうものをどう考えているのか、リンクしているかどうかっていうのを、どう考えたらいいのかな」
「うーん、そりゃ個人差じゃない?」
「み、身も蓋もない…さっきまでの主語の大きさはどこに行ったんだ」
「万事簡単なことじゃないよ」
彼女が目を伏せて一呼吸起き、急に真面目な雰囲気を醸し出すものだから、僕もつられて居住まいを正す。
「美しいと思う関係性や情緒はそれはそれであって、わたしが好きな相手のことを、どう好きか、どう美しいと思っているか、それはまた別にあって、どこかで繋がっているとして、その動線を正確に描くのは難しいんだけど、ま、わたしに限って言えば」
わざとらしく溜めて間を作り、しかしどこか軽い口調で中川が言う。
「あなたにとって替えの効かない、たった一人の存在になりたいってことかな」
僕が黙りこんだのを見て恥ずかしくなったのか、おどけて一言付け加える。
「……つまり、手塚にとっての不二みたいな、お互いがそういうやつでありたかったってことよ」
「その例えは正直全然わかんないわ」
*
「…というわけで僕の幼馴染の腐女子が男子校の百合オタクに聞いてほしいっていう質問があったんだけど、最終的になんだかよくわからなくなってしまったという話で」
「何が「ということわけで」なんだ一体」
遠山は目当てのカップリングの同人誌を端から全て買い物かごに突っ込みつつ呆れたように答える。今日は日曜日で、僕たちはまんだらけのとある一角にいる。めでたくも二人とも18歳であるのだ。一日中ダラダラと話をしながら、僕が彼の買い物に付き合っているという格好だ。
「まあでもなんとなく、百合好きの人についてわかんないなと思うのが、遠山が百合読んだり書いたりする時って、なんか共感とか、自分もそういうのわかるなー、みたいなの、入ってたりすんの」
「いやーそれは全くないな、純然たる萌え。百合に挟まる男は全員死ぬ」
「共感という形であっても?」
「共感という形であっても」
ばっさりだ。彼が笑う、笑いながら携帯電話をいじっている。買うべき作品のリストを眺めているのだろう。
「ねえ、遠山」
あなた遠山の生身の人間に対する「好きは」、…
一番核心的なところにあと少しで届くのに、最後の一歩を踏み出す勇気が出なかった。
「なに」
代わりに問うべき疑問はあるか。まだ質問がありますという風に口火を切り出してしまった手前、なんだかそれらしい代替を与える必要があって、本当に聞きたいことの一つ手前の曖昧な疑問、もう少し持って回った言い方、その全てを瞬時に計算するだけの思考力はなくて、一番どうでもいい言葉が滑り出る。
「・・・・・・百合の業界って、攻めとか受けとか、拘るの?」
明らかにシリアスな間をあけてから放った脈絡のない質問に、その細かな違和感に遠山は触れてこない。
「世間的には色々あるけど、俺は拘る派だな」
「BLはともかく百合で拘る理由ってあんの?セックスってそんな違うの?」
「俺の場合は実用面よりむしろあれだな、解釈問題的な」
「か、解釈う……?」
「まあ、もうちょっと勉強しなさいってことだな」
同人誌の棚に囲まれて、僕たちはくだらない話を続ける。気楽で、いい加減で、核心に触れたがるふりをして、その実空っぽな会話が、いつまでも終わらないで、いつまでも続くような、嘘、きっと来る終わってしまった後の未来を予感しながら、未来の像を描きながら、終わってしまうまさにその瞬間だけ想像できないで、曖昧に笑っていた。
7)卒業
一向に、卒業式は終了しそうになかった。卒業証書を代表者だけが受け取れば終わった中学生時代とは違って、高校の卒業式では全校生徒漏れなくこの儀式を済ませねばならない。くだらない慣行だった。
A組の僕は早々に名前を呼ばれてしまったので、その後E組の最後に至るまでひたすら時間を持てあましていた。眠気に負けてうつらうつらし始めると、担任が同輩を呼ぶ声と壇上を照らすフラッシュの眩しさに目が覚めて、仕方なく足を組み替えて姿勢を直す。進捗具合を確認するとまだ最初のクラスの真ん中で、ただただげんなりとした。
隣に座していたクラスメイトは、式が始まるまでは仕切りに後期試験のことを気にしていたが、今ではすっかり夢の中へと落ち込んでいる。こいつは僕より数段ずぶとい。とはいえ一連の式典はあまりに静かであまりに重苦しく、内ポケットに忍ばせた単語帳を開く気にもなれなかった。
本命の大学入試が終わってから、僕は狂ったように眠っていた。したかったはずのことも全部抜け落ちて、空っぽになっていた。
入試は、全身にため込んできたありとあらゆるものを、こそげ落とすようにして吐き出す作業だった。身体はあまりに軽くなって、どこにも行き場がなくなっていた。次のタスクはいつまでたっても始まらなかった。遠山に送ったメールも返事がなかった。ひとりでただ、ベッドに潜り込むよりほかすることがなかった。
今日という日が来るまで長かった。
女性的な声をした担任が、遠山のフルネームを読み上げる。
その響きは甘くも、冷たくも、優しくも、ない。そう思ってからすぐに、まあ要するに語るべきことは何もないってことだ、と冷静なもう一人の自分が呟く。今この瞬間、特別であるかのような儀式の特別さを何がしか描写したくてたまらないのに、言葉を与えたら全部嘘になってしまう、青臭く痛々しいポエム気取りは何もかも嘘だって、何かに駆り立てられるようにそればかり考えている。
いつまで嘘をつき続けるのだろう、と、ずっと思っていた。
僕の感情なんか所詮、中川が語るBLをなぞっているようなものでしかないのだ。好きな人がいて、告白できなくて、これはいつか終わる箱庭の中の限定であるという感覚、甘やかな感傷だけ味わっていたいのだ。
「だって君、ダサいし」
僕はダサいだけだ。ダサいから、声を荒げれば面白いと思っていた。不器用なりに何がしかやらないといけないと気ばかり焦っていた。美しくて面白くなければここにいられないと思っていた。それでもどこにでもいるただのモブでは手に入れられない場所、あいつの隣にいたかった。
「お前、病んでるよな」
病んでいるふりをしていただけだ。悩んでいたいだけだ。高尚にあれなかった僕自身の姿をいつまでも追いかけていた。
好きだ。好きじゃない。全部嘘だ。言葉にしたら、嘘か本当かを決めなきゃいけなくなる。言葉を与えなければいい。だけど身体が動かない。何が欲しいのか分からない。何がしたいのかも分からない。夏を疾走する自転車と風に揺れる青いリボン、あるいは古ぼけた講堂に響き渡る澄んだビブラート、美しいワンシーン、僕はそこにいたいわけじゃない。そこにいたかったのかもしれない。もう何もわからない。
『俺、本当はお前のことが好きだったんだって気づいたんだ』
BLの主人公はこともなげに言い放つ。「実は、僕も」という返答が待たれている。台詞の真実性を保証するのはなに。性欲? 他になにがあるの。セックスしないならどうやって区別をつけるの。セックスをするから区別がつくの。なんでそんなことが言えるの。怖くないの。本当に彼らは、「お前」のことが好きなの。彼とセックスしたいかもしれない。しなくたっていい。どっちだってよかった。本質的なところはそこじゃない。誰かと身体を繋げたいわけじゃなかった。他に特別な存在なんていなくていい。形がどうであれ、彼の傍でなければ、意味がない。
去年の今頃、遠山は突然失踪した。しばらく経って、けろりとした顔で学校に出てきた。オタク仲間とけたけた笑いながら、何事もなかったかのようにそのシーズンの深夜アニメの話をしていた。いなくなっていた時期のことを誰にも語らなかった。いや、僕が知らないだけで、みんな知っていたのかもしれない。
あのとき、彼はどんな世界を見ていただろう。彼は他人だ。どうしようもなく理解できない赤の他人だ。戸籍上の親と血が繋がっていないことも、海外の大学を受験することも、直接僕には教えてくれなかった。
僕の目は、正しく彼を見ていなかった。全ての懊悩がひとりよがりでしかないことは、わかっていた。わかっていながら、逃げた。彼のことを何もわかっていなかった。
わたしはきっと、あなたをすきでいたかった。
それでもすきだった。唯一になりたかった。
「全員、起立」
一斉に折り畳み椅子から立ち上がる、ぱたぱたと小気味よい音がする。時計を見ると12時少し前。HRが終わるのが1時くらいだろうからその後の懇談会が終わったら5時くらいだろうか。丸善に寄って後期試験の教科書を買って帰ろうと腹積りをする。
壇上を見ると、すらりと背の高い指揮者が、既にお辞儀をしていた。
ピアノの鍵盤に奏者の指が落ちて、音が鳴る。蛍の光。
最初の数音で突然、どうしようもなく胸が苦しくなった。頭が熱くなって、涙が溢れて止まらなかった。瞼が痛い。鼻の奥が痛い。こんな儀式なんか茶番で、泣くべき理由なんてありやしないのに。
具体的な思い出はひとつとして蘇らなかった。感動的な言葉があったわけでもなかった。たった数音の前奏で、言いようのないものが堰を切って、鼻腔を抜けて視界をぼやけさせた。
そんなふうに、考えるだけの冷静さはあったはずなのに、涙は流れ続けた。在校生が送る歌のはずなのに、気怠げな歌声がすぐそばから聞こえた。みんな歌っていた。僕も吐くように口ずさんだ。
いつしかときもすぎのとを
あけてぞけさはわかれゆく
どんな言葉よりも、どんな儀式よりも、どんな意識よりも、はっきりと終わりを突きつける旋律だった。終わり、という大げさな言葉が、意味を剥ぎ取って襲いかかってきた。それは、あまりに力強い外力だった。
卒業式を終えて教室に帰る途中、取り澄ました顔の彼に会った。当然彼は泣きもしなかっただろう。好き放題できるこの学校に未練はあっても、学校というものに未練はないから、なんて、冷淡に笑っていた。僕は泣き腫らした目を見られたくなくて、適当にごまかして笑った。
負け惜しみみたいだけれど、僕だって学校に思い入れがあるわけじゃなかった。そういうことじゃなく、そういうことじゃなくて。彼は隣のクラスの教室の中に、足早に入っていってしまう。
僕は彼の消えていった背中を、その残像が残る空間をずっと見つめていた。僕らがもう一度会う理由はどこにもなかった。最後に言うべき言葉があってほしかったけれども何も思いつかず、僕は黙って小さく手を振った。
「…遠山!」
遠山は振り返って何事かとこちらをみる。周囲の友人のうち数名もつられてこちらをみる。構わず僕は言う。
「卒業旅行に行きたいんだけど、箱根湯沢」
8)Happy Together
「なんで箱根だったの?」
「温泉がいいなって思って」
浴衣姿を見てみたかったから、と返したら、彼は半ば引き笑いを浮かべつつ、そうか、とだけ答えた。本館から少し離れた露天風呂に長々と二人で浸かり、タオルと着替えを抱えて部屋に戻る道すがら、僕は遠山の浴衣姿をまじまじと見ていた。最初は気にしない素振りをしていた彼も、流石にいい加減にしろよ、と笑い始めた。
照れ隠しなのかどうかわからないが、いきなり立ち止まった彼が空を見上げて言う。
「さすが田舎だけあって、星が綺麗だな」
「本当だ」
掛け値なく美しい夜空だった。僕は息を呑む。彼は僕の肩を叩くと、空の一点を指差して語り出す。
「よく見えるよ、あれ、オリオン座じゃん」
「え?」
「ほらそこ、よく見えるじゃん。あれあれ、あれがベテルギウス、こうきて、あっちにリゲル、」
星々の遥か手前で空を切る、細い指先に釘付けになる。一つ一つを丁寧になぞる、残像が幻のように線を描く。
「そういうこと?」
「……何が?」
「『オリオンをなぞる』、って」
「アニソンの?」
遠山は今でもなお怪訝そうな顔をしている。僕は普通に恥ずかしくなる。
「ずっと、なぞるって誰が何をどうするんだって思ってた、今わかった、それだ」
「これ?」
彼が宙を指していた人差し指をまじまじと見つめて、それからすぐに吹き出した。
「そりゃそうでしょ、他にどんな意味があるの」
「いやだから、何が何だかわかんなかったんだって」
「何がなんだって?」
「でも今ようやくわかった、そういうことなんだね」
「はあ……」
僕は目を伏せる。遠山はまだ納得がいかないという風に口を尖らせている。僕らの間に横たわる深い溝を、彼は一生思い巡らせなくていい。彼はオタクだけれどシュッとしていて、僕はシュッとしていなければオタクにもなりきれない半端者だ。
「ねえ遠山、旅行、また行こうよ」
「向こうで落ち着いたらそのうち連絡するよ」
「嘘だ、遠山から連絡が来た試しがない」
「ほんとだよ、多分」
「いいよ、僕から言うから」
そう、本当に会いたければ僕から言い出せばいいだけの話だ。遠山は断るかもしれないし受け入れるかもしれない。何も言わないまま傍にいたいだなんて、そんな道理は通らない。
つまりそれは言い出してからの話で、僕らの未来の、まだわからないことだらけの話なのだ。
エピローグ:再び10年後、同窓会会場にて
「はい卒業10年おめでとー!」
「乾杯!」
「かんぱーい」
「ねえねえゴールデンカムイ展行った?」
「いきなりその話?」
卒業から10年ばかり経って、同窓生を適宜集めて、飲み会をやっている。要するに定期開催の同窓会である。参加者の、学生時代の関係性の近さ遠さはさまざまだが、だいたい全員オタクである。世帯を持つの持たないのといった話もなくはないが、それでも話題の中心にはアニメと漫画とBLが残っている。
わたし、本庄京子は10年前、女子校に通うしがない高校生だった。
「しかし結局高遠のやつ、来なかったのね」
「新しい職場の飲み会だってさー」
幹事の美奈子ががっかりしたように言う。入り口で不参加は確認済みだから、今更「あいつ」の名前を耳にしたところでどうってことないだろうと過信していたが、うっかり刺身を取り落とした。
「でもいよいよ日本でパーマネント職なんでしょ?次回からは来るんじゃない」
「だといいけどねえ」
何をいいことがあろうか、わたしは他の人が見ていない隙を狙って落とした刺身を食う。なんだか変な悔しさがあった。同時に話題を逸らしにかかる。
「こっこは今も漫画書いてるの?」
「書いてるよ!流石に仕事の状況にもよるけどねー」
「この前インテで会ったけど、準壁だったじゃん」
「さすが、昔から絵上手かったもんね」
女子校の人間はBLに呪われている。在学中に多くのものが腐女子として覚醒する。卒業後やめるものも居れば、続けるものもいるし、恐ろしいことに学生時代は全くそのケのなかった友人が、ミュージカルに社会人マネーを叩きつけるようになっていたりする。
わたしはここ最近大して何もしていなかったので、素直に感嘆を漏らす。
「はー、すごいね。皆さん今でも精力的に活動されてて……」
「京子はなんかやってるの?」
自分に質問が向けられるとは思わず、むむと考え込む。ここにいる大半の連中とは違い、同人誌出版のようなクリエイティブなアウトプットはやっていなかったことに、本当は少し負い目があるのを、あえてふざけて答える。
「昔っからみんなと違って、絵も文章も書けなかったし。萌えとかよーさんわからんで、Twitterで仕事の文句言うくらいですわ」
「何そのエセ関西弁」
みんなの程々の愛想笑いが、今ではちょうど心地が良かった。
そこで急に思い出したように香織が言う。
「でも昔さー、京子もBL小説書いてたじゃん、pixivで」
「は?」
心臓が凍りつく。なぜ、彼女が知っているのか。彼女が、というかそもそも、誰にも教えたことがなかったはずだ。
「超偶然なんだけどさ。あたし雑食だったから、「創作BL」で手当たり次第にググってたらさ、京子のメルアドと同じIDのpixivアカウントをたまたま見たことあって。『koreha_fiction_desu』みたいな変なやつ、あれ、京子のメルアドと一緒だよね?あんな変なのそうそうダブらないだろうと思って。なんか男子校のさあ、一次創作のやつ」
「何それ、超興味あるんだけど。京子ってBL嫌いだと思ってたわ」
「もうありません、消してるんでありません」
言ってからしまったと気づく。そこは「そんなものは知らぬ存ぜぬ」が正しいはずだった。全く冷静な判断ができていない。アルコールは少量でも脳に良くない影響を与える。
「いや結構、切なくていい感じだったなーって思って。なんかいかにも次回最終回っぽいところで終わってたから、あれどうなったかなって。急に思い出したわ」
「頼む、人の黒歴史をほじくり返すの勘弁して」
「え、なんだっけID、フィクション…?」
「あーーーーーーーーーーーーーーーー何でもありません」
吐くように声を絞り出して、お冷を一気飲みする。
まさか、同級生に見られていたとは思わなかった。香織は高3の時は同じクラスじゃなかったから、あんまりピンときてはなかったかもしれないが、しかしみる人が見れば誰が「遠山」なのか一発だ。自分で書いておきながら、最悪の私小説だと分かっている。
当時はあれしか、自分の気持ちを吐き出す術がなかったと言い訳してみるが、オンラインに載せていたのは完全な自己満足だ。この世のどこかで共感されてほしかったという切実さもこれまた言い訳で、実の所自分の書き上げたものに対する歪んだ自尊心というか、ともかく誰かに認めてほしかったのだ。そのくせいざこうやってフィードバックがくると、その備えはできていないのだ。もっといえば同窓会開催の感傷に浸りすぎていたとはいえ、酔った勢いで昨夜、下書き保存に手を入れまくって投稿するなんて馬鹿なことは当然すべきでなかった。帰宅後即刻削除しかない。
急に美奈子がおお、と声を上げたものだから、みんな驚いてそちらを見た。これで話題が逸れると一安心も束の間、
「高遠、三次会があったらそこから来るって」
来ねえって言ってただろバカ野郎。日曜の夜にやるわけないだろこの野郎。
「マジで、じゃあこの後は二次会カラオケで、三次会は京子の新居に行こうよ」
「一階がピザハットだもんね」
「ピザハットって何時までやってるんだ?」
ふざけんなよ調子に乗りやがって。これだから女子校出身者は揃いも揃って碌でなしである。当時描いていた小説には、男子校の描写がわからず、とりあえず女子校の野蛮な部分をこれでもかと詰め込んでいたが、まあさして違和感ないのではと今も思う。どうだろう?
携帯が微かに振動する。メッセージアプリをチェックし、父からの他愛もない近況連絡だとわかり既読もつけず放置したところで、手ぐせで何の気無しにメールアプリを開く。ダイレクトメールに混じった懐かしいメールアドレスはしかし、一瞬で誰のものかわかる。呼吸が止まる。動揺を悟られたくなくて、一旦トイレに向かう。震える指先で開く。
”元気?三次会やったら京子もいる?”
卓に戻ってくると、幹事の美奈子が既に二次会の実施を決めていたところだった。
「じゃそしたら、二次会は高遠来るまでパセラね。予約しとくわ」
「最高っすね」
「勘弁してよ、わたし、歌とかほとんど歌わないし」
「まあいいっしょ、飯食ってれば」
微かに抵抗を試みるも瞬時に折られる。全く女子校出身におかれましては、喋りの速度は異常としか言いようがない。
「そういや京子とカラオケってなんか新鮮かも!十八番ってなに?」
もはや完全に逃れえない雰囲気であるが、そもそも平時カラオケに行かないというのは嘘ではない。世間で人気の歌など元々知らないし、どうせほとんどの時間はへらへら笑って座っているだけなので、感傷のままに適当に答える。
「…『リニアブルーを聴きながら』かな」
「なんだっけそれ、なんか聞いたことあるぞ」
「こっこ忘れちゃったの!?あんなにバニタイがどうこう煩かったのに」
「美奈子とよく謎の逆カプ論争やってたよね~」
『あなたがわたしを待っている』だなんて一度だって信じたことはない。
それでも何度なぞったかわからない記憶の輪郭と今の姿はどれほど違っていることだろう。あれから10年もの時が経ち、夜半に星々を指差し繋ぎながら語らうような時間を、あなたは誰かと過ごしているのだろうか?わたしは……
……わたしは机の下で、「あいつ」、高遠に向けてメールを打つ。昨晩ついぞ送れなかった、下書きボックスの中の長文のことは忘れて、はるかにいい加減な返信を書く。
わたしにとってあなたが永遠にそうであるように、あなたにとってわたしが、多少は美しい思い出であることを祈っている。きっともはやわたしではなくなってしまった、庄司真の幸せと共に。
<了>
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