「努力する強者」と「怠惰な弱者」の構図を解説
概要
最近よくXでインテリ層と弱者層の「努力」に対する価値観の違いを目の当たりにします。その構図はいつも同じで、ほとんどの弱者は「努力」否定派であり、社会的地位の高い人やインテリなどの強者のほとんどは「努力」肯定派です。
なぜ強者と弱者でこのような違いが現れるのでしょうか。また、強者・弱者のそれぞれに属する少数派についても、何が原因で同じ属性の多数派の価値観と異なるのかということも、強者と弱者の違いを掘り下げる中で明確になります。
強者と弱者の共通点 その1
Xで対立している強者と弱者ですが、まず、それぞれが持つ価値観の違いの前に、それぞれの共通点について述べておきます。
「努力を推進する強者」と「努力を否定する弱者」の双方とも「現在の社会の状況は芳しくない」と考えています。そして同時に「よりよい社会」を望んでいます。ここが1つのポイントです。
もちろん、社会は良好であると考えている人も存在しますが、社会が良好だと思っている人は現在の状況に対して不安を抱かないので、他人に努力をしろと言ったり、努力は悪だと主張したりはしません。人は何らかの問題に不安を感じ、それを解消するために行動を起こすのです。
そしてこの「共通の問題」を解決する方法論の違いが価値観の違いを生むことになります。
強者と弱者の違い
社会を良くする方法
強者と弱者の違いは、社会を良くする方法論にあります。
具体的な強者として、幻冬舎の箕輪氏を例として取り上げます。彼は過去数年間さまざまなネットメディアにて「意識高い系」を広めてきました。そんな彼が「ReHacQ−リハック−」に出演したときの発言の中に、この問題に関連するヒントが隠れています。
発言は以下のとおりです。
「News Picks Booksのときは本当に心から世の中を良くしているという偏った狂気を持ってました」
「【僕が『バカになれ』とか『狂え』とか『考える前に跳べ』って言えば言うほど無謀な若者が増えて、そしたら日本は元気になるんだ】って」
「とてつもなくシンプルな単純すぎるロジックをマジで信じてた。だから楽しかった。」
「たぶん飽きたのはどっかで『そうでもねぇな』って思い始めたからかも」
「箕輪編集室とかオンラインサロンをやって、すごいやって良かったし、やめたとき皆『あれ入ってこうなりました』って言ってくれて」
「あ、意味あったんだって救われた部分があったんですけど、言っても自己満足だなと思い始めて」
「そんな皆変わんないし、毎月毎月自己啓発本を読んで『人生変わった』って言っている若者を作っているだけじゃんみたいな」
「ある種、自分は社会のためにという幻想が『若干そうでもないな』って思ったのが飽きた一個の要因で・・・(略)」
どうでしょうか。X上の努力肯定派の強者の意見に重なるものがあるのではないのでしょうか。ようするに、箕輪氏は、社会を良くするための方法論として「若者を元気づける」という策を採用したのです。
この視点でそのまま今回の問題を見てみると、
強者は社会を良くするためには「人間の努力」が必要だと考えている
ということになります。
一方で弱者は、自身の持つ体験から問題解決の方法論として努力があまり適切ではないと考えています。上記の結論に至るのは当然です。努力しても能力には限界があるという現実を知っているからです。では、弱者は一体何が「芳しくない社会の状況を好転させる」と思っているのでしょうか。
それは、「社会システムを改善せよという要請」です。「社会制度が変われば」「社会システムがより良くなれば」と考えています。
強者からすると弱者の方法論は努力を否定するどころか他力本願であり、ただの文句に聞こえるため、より一層怠惰に見えるのです。しかしながら、自の力量を知る弱者としては理にかなっています。
この両者の問題解決策の違いが「努力」に対する価値観を変えてしまっているのです。
少し言葉を変えてまとめると、
両者の方法論はそれぞれ
強者は「人間の適応」
弱者は「社会システムの改善」
となります。
強者と弱者の共通点 その2
社会を好転する解決策として
強者は「人間の適応」
弱者は「社会システムの改善」
を重要視しているということでした。
それぞれ全く別の思想だと思えますが、これまた両者にはおもしろい共通点があります。
それは、
誰の課題とするか
です。
一度、原点に帰りましょう。我々は「現在の社会の状況は芳しくない」と考え、その状況に不安を感じています。その不安を解消するための行動がXのような議論として現れていました。しかしながら、実は自分がその問題の原因の一端を担っていたとなればどうでしょうか。本末転倒です。不安を解消したいのに、相手の主張を認めれば、逆に自分が無理難題のタスクを抱えることになるのです。無理難題のタスクはさらなる不安を生み出します。仮にそのようなことになれば、弱者はおろか、強者といえどメンタルを病んでしまいます。
ゆえに、強者も弱者も課題を相手に預けようとしているのです。
この行為は「防衛機制」という精神分析学の概念が当てはまります。「防衛機制」とは誰もが持っている無意識下に行うストレスへ対処機能を指します。防衛機制はさまざまな種類があり、品質(効果)も種類によって異なります。例えば、「置き換え(八つ当たり)」や「合理化」などがあります。
詳しくは、スライド形式で説明した動画をご覧ください。
(動画を見るよりもネットで検索したりAIに聞いたほうが早いかもしれません。)
この観点から考えると「誰の課題とするか」という思惑が共通して現れることは人間としてごく自然だと言えます。
「人間の適応」と「社会の改善」どちらが正しいの?
どちらが正しいの?という見出しですが、もちろん、両方とも社会にとって必要な要素です。しかしながら、これらの適切なバランスは時代によって変化します。
適切なバランスについて説明する前に、まずは理想論という観点からどちらが正しいか考えてみましょう。結論からいうと、理想論的には「人間の適応」よりも「社会の改善」の方が正しいということになります。理想論的には、完璧な社会があれば人間は全く適応しなくても良くなります。AIやロボットが働き、エネルギー問題などの現実的な問題はすべてAIに任せることで、人間は努力をする必要もなくなるでしょう。
めでたしめでたしです。
しかしながら、現実(少なくとも2025年現在)はそうは行きません。そうすると自ずとそれらのバランスが大事だということになります。つまり、「社会の改善」で塞ぎきれなかった穴を「人間の適応」で補うということです。
そして、「社会の改善」は常に技術と深く結びついています。技術が高ければ「社会の改善」がそれだけ進むということです。
先ほど、
「人間の適応」と「社会の改善」の適切なバランスは時代によって変化する
と言いました。
技術が時代とともに発展することが理由です。
具体的な例として過去の時代を考えるとわかりやすいです。昔は学校教育において体罰が許容されていました。今考えるととんでもないことです。しかしながら、当時は教育そのものの技術やそれを共有する技術が足りませんでした。ゆえに、妥協論・現実論として体罰を選択していたのです。現代の「体罰は悪」という価値観は、教育そのものの技術やそれを共有する技術によって培われたに過ぎないのです。
したがって、妥協論で成り立たせている社会に住む我々は技術の発展に合わせて「社会を改善」する義務があるのです。
そのことを踏まえた上で、もう1つ消去法的な見方として「弱者の努力」と「強者によるシステムの改善」を比べてみます。
弱者の努力
まずは、「弱者の努力」です。結論から言って無駄です。何年か前に、社会的な成功は能力よりも運の要素が強いということを数学的に証明した論文が話題になりました。つまり、弱者という要素の前に、努力という要素が不確実性を帯びています。加えて、努力で良くなるにせよ、弱者の努力は効率が悪いのです。それは自明の理であります。会社の面接で同じスタートラインに立つ新人として優秀なものを採用しようとするのも同じことです。
強者によるシステムの改善
次に「強者によるシステムの改善」を考えてみます。正直つらいです。強者とはいえ人間です。優秀な遺伝子を持っていたとはいえ高い地位を得るために一生懸命努力してきました。そのうえで、ニュースを見るたびに無理難題と思える社会の課題を思い出し、それに向き合うのでしょうか。
最近では、
・不登校の増加
・実質賃金の低下
・貧困による闇バイトなどの問題
・貧困により若い世代が結婚しない少子化の問題
・すでに全員が理解している破綻した年金制度
などの問題をSNSやネットニュースなどで日々目にします。
正直全部弱者の努力不足にできるならそうしたいのです。弱者の言い分は言い訳として流したいです。弱者の言い分を聞いて真面目に考えるとせっかくの楽しい人生が台無しになります。それにそもそも強者といえど、いつもハッピーなわけではないのです。
とはいえ、「弱者の努力」に比べると現実的な解決策ではないでしょうか。なぜなら、社会のバグを真正面から受け止めることのできる「メンタルの強い強者」というのも存在するからです。
我々の認識するところでも社会システムの改善に真正面から取り組む一部の強者は存在するのではないかと思います。例えば、ひろゆき氏がそうです。十分な資産を持っていながら、わざわざ社会の改善を促進するような思想を日々発信しています。
なぜでしょうか。これは実は単純な問題で、「社会の改善」という思想に結びつきやすいポジションがいくつか存在するからです。例えば、「社会学者」などがそうです。社会学者は日常のありとあらゆる問題を社会と結びつけたがります。社会学者は問題と真正面から向き合うことで自分自身の思想や存在を肯定できます。つまり、メリットがあるのです。社会のバグと向き合うことで抱えることになる不安が多少なりとも軽減されるのです。こうして、自ずと「社会の改善」派になるのです。
ひろゆき氏の場合は、「システムエンジニア」だということと、「人間に期待していない」ということが大きな要因だと思います。そもそも「人間の適応」は人間に期待していないと無理な発想です。ゆえに、弱者は自身の体験から「人間の適応」派になりにくく、強者はなりやすいという傾向になるのです。
また、システムエンジニアというポジションは、
社会を自然として見るか否か
に関係します。
プログラミングでは一から自分の望む世界を作ることができます。既存のプログラムであってもちょちょっとコードを変更すればすぐに改善されたというフィードバックが得られます。それにバグを直してプログラムが理想通りに動いたときには快感が得られます。これも立派な「体験」なのです。ひろゆき氏は社会を不変なもの(自然)としてではなく、ゲームやプログラムのような変更可能なものとして捉えていると思います。もちろんシステムエンジニアがすべてそのような世界観を持っているかと言われれば別ですが。。
ゆえに、強者の中にも少なからず「社会(システム)の改善」派がいるのだと私は思っています。
話が逸れましたが、私は「社会の改善」を推しています。それは私自身が社会的弱者ということもありますが、私は私自身を精神的強者であるとも認識しています。私には何にも左右されない哲学があるからです。
何が言いたいかというと社会的強者になっても私は「社会の改善」を推すのだろうということです。※あと単純に社会的弱者でありながら精神的強者になれるという哲学の宣伝でもあります。
また、
「努力する強者」と「怠惰な弱者」の構図を解説
というタイトルですが、強者の方々向けのタイトルにしています。あえて強者目線のタイトルにしました。それは、この記事を読むことで強者の方々が持つバイアスに気付いてほしいからです。
これからはAIの時代です。富が一部に集まりすぎて資本主義が崩壊するという説がありますが、その流れが加速します。その流れの中で社会を維持するためにはより一層ベーシックインカムや弱者に対するケアが必要になってくるでしょう。それが達成できなければ日本の治安は悪化し、いずれは崩壊するでしょう。
そうならないようにという願いを込めてこのようなタイトルにしました。
不快に思われた弱者の方々は申し訳ありません。