ワーママ時代の3分の2は自律神経失調症と闘っていたはなし その3
yocoです。
自律神経失調症と過ごしたワーママ時代を、
その1 発症からはじめての休職まで
その2 復職と2度目の休職まで と振り返ってきました。
その3では2度目の休職と退職に至った体験を紹介していきます。
肩書を失う
無期限の休職に入るということは、当然自分が持っている仕事をすべて手放すことを意味する。当然役職もだ。
私は持っていたプロジェクトリーダー、課長という肩書、積み上げてきたワークキャリアを失った。
こんなにも一瞬でなくなるものなんだ。
感じたことのない喪失感だった。
とにかく泣いた。これでもかというほど枯れるほど泣いた。
私は空っぽになってしまった。
この気持ちは、今でもふっと蘇ることがある。
結局わたしは何者にもなれなかったなと、思ってしまう。
2度目の休職の過ごし方
心療内科の壁を超える
無期限の休職となると、会社としても診断書が必要になる。
心療内科にかかることに抵抗がある人は多いのではないでしょうか?
私もそうです。心療内科=心の弱い人が行くところ 私はそうじゃないと思ってました。
いざくぐってみると、病院では話をして、少し休んだ方がいいですね、とりあえず1か月でいいですか?と聞かれ、機械的に診察は終わり、あっさりと診断書を出してくれた。
なんだか拍子抜けした。
心療内科ってこんなものなのだろうか。
ここではじめて診断名を付けられた。
病名は 身体症状性障害 と書いてあり、自律神経失調症のことね、と言われた。
たぶん私はハズレの心療内科に行ったのだろう。
(世の中にはしっかりとケアをしてくれるところもあると思っています)
身体を壊してから、症状にあわせて色々な病院へ通ったが、心療内科に限らず、病気になってしまったとき本当に治すのは医者ではなく自分なんだなと悟った。
(ここから健康マニアに突き進んでいくのだがその話はまた別で)
出来なかったことをやってみる
休みの期間はとにかく、心がときめくこと、喜ぶことだけしようと決めた。
これまでできないことに罪悪感を感じていたため、それをやってみようと決めた。
主にやってみたのはこれ↓↓↓
自然の中で森林浴をする
断捨離をする
日記を書く
日光を毎日浴びる
子供の面倒は自分で見る
わたしはワーママとして働いていて、母親としてできていないことがあることにずーっと罪悪感を感じていました。
例えば宿題を見てあげるとか、一緒に夕飯を食べながら学校であったことをゆっくり聞くとか、後でねと言ってできていなかったことをしたかった。
習い事の送迎を祖父母に頼まず自分でするとかもそうですね。
そういった意味での子供の面倒は自分で見るです。
そして、この期間にママ友が沢山増えました。これはとっても嬉しかった。
保育園時代も小学校に入ってからも、子供の友人と顔を合わせることが少なかったので、正直ママ友は本当にいませんでした。
知り合えなかったママ友と知り合いになりママさんネットワークを持つことができたのは精神的にもかなり助けられました。
自分が仕事をしていたことで、やれなかったことがやれるようになって少しだけ心が安らぎました。
やってくる会社との定期面談
当然会社も何もせずずっと休んでていいよとはいかず、月に1度面談をする。
体調はどうか気持ちはどうかと聞かれる。(要はもう戻れるかい?と聞いているのだ)
面談の度に、辛かった日々を嫌でも思い出すことになり、正直面談自体が苦痛で仕方なかった。
中小企業の小さな会社だったので産業医はおらず、直属の上司が面談相手だったことも要因かもしれない。
本当に、しばらく放置しておいてほしかった。
無期限の休みに入ると、あぁあの場所に2度と戻りたくないと思うようになった。自分でもそんな気持ちがわいてくるとは意外だった。
そして気づく、「わたしあの場所にいるのこんなに嫌だったんだ」と。
でも管理職をしていた身なので部署の状態、業務の状況を考えるとわかっているぶん、休んでいる申し訳なさは消えない。
これくらいに戻ってくれると嬉しいという情報を匂わせてくるのに嫌気がさすが、私が逆の立場なら早く帰ってきてと言いたくもなる気持ちもわかってしまうのだ。
自分の本心と責任感のような気持に挟まれていた。
結局3回の面談を経て、「忙しいですもんね。そろそろ戻れます。」と答えてしまった。
休ませてもらったぶん復帰してまた頑張るべきだと思っていたのだ。
4か月間の休職は終了となった。
誰が何を言ってくれたら正しい選択ができていたのだろうか。
2度目の復帰
復帰後、最初の1週間は半日出社、その後は6時間勤務、翌月からフルタイム勤務へと段階的に勤務時間が増えていった。
体調は良くなかった、休職中は休んでいるから調子が悪くても大丈夫だったというだけで、食べるということで起きる不調は休職中に回復することはなかった。
機能性ディスペプシアとか過敏性腸症候群は命に関わる病気でないがQOLがすこぶる下がる。
周りに理解されないという状況が正直しんどかった。
戻ってきたということはもう大丈夫だよねー?という雰囲気が漂っていた。
他にお願いする人がいないから
新しく入ってきた案件は、当社では前歴がなく、是非実績を作ってほしいということで任されることになった。
これくらいの内容なら全く問題ないですが、それは元気な時の話ですよ。と心の声。復帰したばかりなのに、無理したくないのに。
でも社会人は任された仕事を断ることは基本しない。
結構なスパンで新幹線に乗って片道3時間かけて客先にいかなければいけない仕事だった。
デフォルトで体調不良の私には移動だけで結構きつかった。
さらに2,3時間の打ち合わせでまた気が張り詰めて、帰るころにはぐったりだった。
打ち合わせ中、また息ができない錯覚があってパニックになりそうだった。
「身体のことがあるのでサブをつけてほしい」という要求は結局最後まで通らなかった。
退職の決断
遠方への出張が続いていた日、帰りの駅で吐き気が止まらなかった。
病院でもらった頓服の吐き気止めも効かなかった。
でもなるべく早く帰って子供たちのご飯を作らなければいけない。
3時間かけて帰るのに、この状態では帰れないと思った。
吐きそうな顔をして、泣きながら電車にのっている40代女性。
周りからみたら、さぞホラーだっただろう。
働ける状態ではない。
働ける状態ではないのだ。
帰社した翌日に最短で退職したいと申し出た。
また休めばいい、一緒に働きたいとまだ言ってくれる仲間はいたが、今度ばかりは自分を守るため、本音に従った。
辞めるか、辞めないかのリストにもう辞めない理由は一つも上がってこなかった。
わたしは10年のワーママ生活を終わらせた。
振り返って
その1~その3までワーママ時代を振り返ってきました。
長々とお付き合いありがとうございました。
退職してからかなりたった今も、はっきり言って辛かったの一言に尽きます。
辞めた直後は、辞めたことを後悔すると思っていましたが、全く逆で、どうしてもっと早く辞めなかったのかと毎日思っていたほどです。
自分を守れるのは自分だけです。
今は、身体を休めながら、自分にとって一番最適な働き方とは何かを模索中だ。
母親は(女性は)こうあるべきといった考えが、少なくとも働く女性や働く女性を取り巻く環境に大きく影響していると感じざるを得ない。
そんな社会概念を良い方向に変えていける仕事をしたいと今は思っています。何ができるか、まだわからないけれど。
また働きはじめたときに、同じように自分を壊しはしないか、そんな不安への自己啓発を兼ねてこのnoteへ綴っている。
自分を大事にしよう。
これからはこれが人生のテーマだ。
その3も最後まで読んでいただき心から感謝です。
ありがとうございました。
ワーママ時代の振り返りは暗い辛い話ばかりでしたね。
これからは先の目標なども綴っていこうと思います。