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ストップ!クレクレちゃん。そのタダは本当に必要な物?
今日もフランスからボンそわっ。
早いものでもう4月ですね。今日はエイプリルフール。
フランスはpoisson d'avril (プワッソン ダヴリィル=4月の魚 (直訳) )といって、紙で作ったお魚を人の背中に貼るといういたずらデー。皆さんも小学校の時くらいには一度くらい経験したアレです。
主に子供向けのイベントですが大人も真剣な顔して参加してほしいと密かに思っています。
と、またまた!余談はこれくらいにして本題。
なぜ、わたしたちは無料(タダ)という言葉にとても弱いのでしょう?
タダですよ。と言われるとなぜか必要ないのにもらってしまいませんか?
持っているのにまだ『ください』といってしまいませんか?
どちらかだけでもYesであれば悲しいかな、クレクレちゃん認定となります。笑
と、それは冗談(でもちょっと本当)としても、少なからずタダなんだから断るなんてもったいない!という概念がどこかにあったりしますよね。
ただのものに惹かれるのは長い歴史の中の人間のサバイバル意識からくる本能かもしれません。石器時代くらいから物々交換が始まったとしたら、タダという概念はまだなかったのかも‥。
少し前に私物の片付け売りをしました。そこにいらっしゃった十分にお歳の召されたマダム。二十歳代のお子さんが数人いらっしゃるとのこと+なかなかの高級な地区にお住まい。
売却対象品はわたしの要らなくなったものがほとんどなのでお値段はあってないようなもの、マダムはまずお洋服を二十着以上試着されて、そのうち一着だけお買い上げ、そして三着はサイズが入らなかったけどやっぱりどうしても欲しい、痩せてから着るから。安いし。とおっしゃってお買い上げしていかれました。そして要らなくなったアクセサリーや雑貨、本、美容関係などは無料(タダ)で差し上げるので欲しいものがあれば言ってくださいね。と提案したところ、大して見もせずに全てもらいます。とのことでした。
使い方や使い道の分からないものも沢山あったようですが、とりあえず全て、とおっしゃるマダム。
全部 捨てようと思っていたものなので、粗大ゴミ収集トラックが自らやってきてくれたこと(笑)に何の問題ないはずなのですが、正直 わたしの心はかなりモヤモヤしました。
本当にそれ、使うの?って。
使い方もわからないのに使ってもらえるとは思えない。どうせあげるならちゃんと使ってくれる人のところにいってほしいなというモヤモヤでした。
ものが自分から違う人の手に渡った時点でどうしようがその人の自由なのだから、たとえその人のクローゼットに一生入ってしまうとしても、どこかに放置であってもわたしのものであるという領域は出たのだからと頭では思うのですが、物の気持ちを考えるとなんともいたたまれない気持ちになってしまったのが正直な告白。
しかし。わたしは自分の周りにいる人は全て自分の鏡。と思いながらいつも外側を見ているので、わたしの中にまだこんなにも強力なクレクレちゃんがいるということ?とショックな瞬間でもありました。
ええ。認めますとも。確かに昔はわたしもそうでした。誰かにあげる、と言われたら、とりあえずありがとう!? と、もらう。気に入ったものはすぐに使わなくてもとりあえず買ってしまう執念ぶりでした。
わたしのクレクレちゃん全盛期です。(こんなのない方がいいと思います、はい。)
だけども今はほとんどその禁断症状はなくなった筈。なのに蓋を開けてみたらば物の行方がどうなるか気になるという感情もまた同じく執着だった、ということに気付いた瞬間のさらなる衝撃といったらもう、奥さん。(手のアクション付き。)
人生において不足感を感じている人は周りや物でどれだけ満たしても満足できない事実。
さらに今の時代は受け身だけではダメで自ら選択していくことがとても大事になってきたなと感じます。
欲しいのか欲しくないのか。必要なのかそうでないのか。好きなのか好きではないのか。
( 以前にグレーもアリ、という記事を書いたのですけどそれはテーマと切り口が違うので混同しないで下さいね。)
そこから沿うと、要らないものはノーといえる勇気こそが必要になってきますよね。ノーと言える勇気。なんかベストセラーにあった本みたいだな。(中身は知らないけど同じようなことだったりして。)
そして、タダは何も形のあるものに限ったことではありません。
エネルギーワークとかヒーリングなど目に見えないものを扱っている人は分かると思うのですが、そういう目に見えないものは特にタダだと思い込んでいる人が多いので、寧ろそういう意識すらなく、罪悪感なしに『試しにやってみてよ〜』ってなことを言われたりすることもあります。この分野は他に知識・情報・親切・優しさなどもそこに分類されると思います。
わたしもそういった類のものを出し惜しみするつもりはないので、自分が腑に落ちた情報や知識などはどんどんシェアしていくつもりです。言うなればそれがわたしのテーマである『全てはエネルギーの循環』だからです。
でもクレクレオーラ丸出しでやってくる人にはどうしても条件反射で 反対方向を向いていることも正直あります。汗
逆に人によってはこの人ならあげたいな!全部あげてもいいな。あげるという感覚よりもらってほしいなという感覚(このニュアンスの違いが分かりますか?)の人もいるから不思議ですよね。
ここまで書いておいて何ですが、こんなにクレクレちゃんの取り扱いに注意しているわたしでさえもエネルギー関係のメンターのグループワーク内で『もらうことばかりを考えないように!』と言われてドキッとしたことが過去にありました。気を許すと知らない間にクレクレオーラが出ているのか?!と恐ろしくなったことも。まぁ言ってるわたしもこんな経験をしているのでポテチかじりながら気楽に読んでくださいね。笑
それにしてもクレクレちゃんは油断成らぬすご者というわけですが、勿論もらうことがダメだと言っているわけでは決してありません。
自分の必要なものや欲しかったものならそれはぜひ受け取るべき、それは宇宙からの臨時収入ですから。
それが目に見えるものでなかったとしたら、そのことに気付いて感謝すれば十分だと思います。
問題は本当は欲しいと思っていなかったものまでタダだからという理由で受け取らない、ということです。
最近はこの人 嫌だな〜苦手だな〜と思う人は周りにほとんどいないので今回のことでは自分がまた違った形での執着を手放せていないことへの気付き+いい促進剤になりました。
でも あのマダム嫌だったな〜!で終わらず、わたしのそういう部分をもっと統合したらいいよ。という宇宙からのメッセージに気付けたこと、それに気付かせるために遥々やってきてくれたマダムにも感謝。
お洋服も着てあげてね!(この一言がまだ余計 笑)
ちなみに統合とは自分が持っているダークな部分や側面に気付き、それも自分の中の構成要素であると認めていくことです。
これができてくると人生は次第に楽しくなっていくのですが、そのためには多少なりとも今自分が見ている視点を変える必要も出てきます。このように自分でも自覚していない知らない自分を探していくのがものすごく楽しいのです。