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こんな形の人もいる。

職場としての学校は、行きたい場ではあった。

教科指導では、どうしても現行の義務教育課程にツッコミしてしまう為、年々自分の精神衛生が良くない状況になってきた。高校は学校に集まる子たちの学力層により「授業」の中身がまるで違うのだし。難しい話をしたい訳ではない私には、進学校でなくても楽しみがたくさんあったが、生徒と会話できずに禿げていく人もいた。分からないではないが、見ていてつらいものがある。
学問は好きだが学校のシステムが嫌いな自分は変えられなかった。人間がうっすら好きな自分も変えられない。

我が子が「笑わない数学」(トポロジー版)を録画してくれており、観ながら泉に立ち返った心地がする。子どもとぺったりくっついて観ていた。「おかーさんが好きだろうと思って録画しといたんだよ!」と誇らしげな娘。彼女の父とは、フェルマー予想と宇宙論について夜通し喋った仲だった。そんな娘は、学校では特別評価されるタイプではない。「よく意見したり、明るくハキハキしたり、明瞭な絵を描いたり、マス目に収まる字を書いたり」しないからだ。教師の好みを予想して振舞いもしないし。

転職が決まり、ガラス製の「クラインの壺」を買った。自分らしいと思えた。