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「放蕩息子」の例えに関する考察

ルカの15章には、有名な「放蕩息子」の例えが記されています。

この記事を読まれる方々は,既知であろうと推測して全体の引用は省き、要所要所だけピックアップしみました。

《父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。  もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。》15:18
《父親は僕たちに言った・・食べて祝おう。」22,23
《この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。》24
《兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに・・》
29

このたとえはその前で語られているもう2つのたとえと関連があることが分かります。それで15章の冒頭部分を含めて挙げておきましょう。

まず冒頭部分ですが、これら一連の例えを話された対象に注目しておきましょう。

《徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。  すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。》1,2

徴税人や罪人 話を聞こうとイエスに近づく
パリサイ人や律法学者 不平を言う。

このたとえ話の時点で、徴税人や罪人は単にそうした職業あるいは、不適切な習慣をもっていただけの人々ですが、いずれキリストの弟子となるであろうことが予想されているとみなせるでしょう。

「見失った羊」のたとえ
《百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。・・見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。・・悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人([義人] 岩波訳)についてよりも大きな喜びが天にある。」

「無くした銀貨」のたとえ
《あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くした・・そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、・・一緒に喜んでください』と言うであろう。 ・・このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。》8-10

たとえの共通点
いずれも、失われていたものが見つかったので、一緒に喜んでください。という部分と、冒頭部分との共通はパリサイ人たちと「兄」は「不平を言う」という部分です。

放蕩息子の話に移る前に一つの点を押さえておきたいと思います。
注目するのは「見失った羊」の中の「悔い改めの必要のない義人」という表現です。クリスチャンの観点から言えば、そんなグループは存在しないはずです。

この一見「??」と思える記述を考えるにあたって、次の事を明確に捉えておく必要があります。

使徒の活動を含め弟子たちの書簡は明らかに会衆(エクレシア=クリスチャン)を対象にしたものですが、イエスご自身の言葉は、弟子たちに向かって話された事柄を別にすれば、基本的に、その語られている対象は生来のユダヤ人であることを忘れて、すでにクリスチャンになっている人に対する言葉として受け止めて、適用するので、理解が迷走してしまうのでしょう。

実際、「放蕩息子」についての解説は、異口同音に【罪を犯しても悔い改めれば、神様はゆるしてくださいます。】というふうにクリスチャンに適用しています。

すでに記しましたが、これらの話の対象は、徴税人や罪人パリサイ人や律法学者たちです。これらの人々の人格特性が比較されている、彼らの祈りの態度に注目してみましょう。

《自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して・・「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 ・・ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。》
ルカ18:9-14

徴税人は「義とされて家に帰った
これは決して「クリスチャンに対する、その信仰ゆえの義認」ということとは違います。

基本的に、傲慢なものを忌避され、謙遜な者を喜ばれるという神の感性を示したものでしょう。

端的に言って、2種類のユダヤがいると想定されています。
選民思想、律法を守っているので自分が義人だという意識を持つ人々。
神に対して、至らず及ばずの現状を認めて、悔恨の情を抱いている人々。

「義とされた」徴税人とは逆の「義人」つまり「悔い改めの必要のない義人」という表現は、言わば一つの皮肉のようなもので、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」の類だと捉えることができます。

聴衆の2種類の人々に直接適用すると、「放蕩息子」は自分の至らなさを自覚している「徴税人や罪人」。そして「兄」は「パリサイ人や律法学者」を念頭に置いて語られているに違いありません。

放蕩息子のたとえは、単に【罪を犯しても悔い改めれば、神様はゆるしてくださいます。】というだけでなく、行き場を、あるいは身の置きどころを見失って、さまよってしまった状態から、真摯に「神に向かう」態度と、逆にそうした人々を歓待される神の感性を疎ましく思う態度の対比がなされています。

神の憐れみに感謝するとともに、神の愛される人を神とともに歓べる気立ての良い人でありたいと思います。

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