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多様なコミュニケーション

年に一度実家に帰る。
2泊3日で、両親と妹、祖父母に会うようにしている。

遠出が苦手な娘と夫を連れて行くので、どう過ごそうか私もそれなりに緊張して計画するが、当の実家の人々はひたすら受け身で、私の言うことに曖昧に頷くだけである。
あげくに決めたはずの予定を30分後に覆してきたり、とにかく気まぐれで主体性がない。昔からこの家で予定が決まらないことにイラつくのは私だけだった。そこが何だか居心地が悪い。
昔からじゃあこうしよう、と言い出すのは私だけで、そうしなければ誰も何も決めない状況に私はいつも痺れを切らしていた。そしてそういう自分がどう思われているのか分からず、不安に思って余計イライラしていた。

一人になって楽になったのは、自分の好きなように決められるということだ。行動の予定や、家の中の物の置き場所など。私は計画することが大好きで、自分の好きなように決められるというのはこれ以上に心躍ることはない。何でも自分の理想の通りにしたい。そう考えると、一人でいることはやはり自分の特性に合っているのだと思う。

今の家族との生活は、私のそういった個人主義が脅かされない。夫は一緒に生活している人にほとんど干渉しないで自分の好きなことをするタイプなので、初めは寂しく思うこともあったが、結局はこれがよかったのだと思う。一緒に何かする時にも、自分のしたいことがはっきりしている。したくないことは絶対にしない。いつの間にか娘もそうだ。そういう分かりやすさは私にとって重要で、だから安心して人と暮らすことができている。

祖父母の家に行って、年に一度しか会わない祖父母と話をする。母は娘とはしゃいで遊んでいる。私は普段から人に会いに行くことがないので、手土産も世間話も勝手が分からずこういう時に困る。祖母は世間話が上手だ。祖父は気にせず自分の好きなことをしているが、私や娘への愛情を伝えてくれる。妹はどこに行ってもいつも黙っている。
いろいろなコミュニケーションがある。

それぞれに思うことがあるだろうが、それでもひとまず会おうとする。そうしたいからする、それでいい。したくないならしない。
昔はもっと複雑に考えないといけないと思っていた。したいかどうかに関係なくよいことはしないといけない、とか、そうするとどう思われるか、とか、誰がどう思うか、とか。

誰がどう思っているのか、正直分からないのだ。
私は実家の家族に対して負い目を感じているし、苛立つときもあるし、会っても何もできないと思うが、それでも会いたいと思う。それに対して彼らがどう思ってるのかは分からない。
分からないが、会えばそこにコミュニケーションがある。相手の気持ちなんて永遠に分からない。それでも人と人の間にあるのはコミュニケーションだけだ。だから、関わりたいと思うならすればいい、それぞれに思う方法で。人と人の間にあるもの、私には理解が難しいものは、曖昧さがその本質なのだろう。

(某漫画にて)いつも私と同じようなことを言ってる美川先輩に、井上先生が言ってくれた言葉がある。人とのコミュニケーションは一人で100点は出せない。30、40出し合って、100っぽくしていきましょうよ、と。
そのことを私も分かりたいと思う。


終始天気が悪かった
『君と宇宙を歩くために』の舞台でもあります

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