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感情の振れ幅

読み始めた小説がつまらなくて、読み進められなくなってしまった。こういうことは最近なかなかない。
結構評判がよく気になっていたので、古本屋で見つけた時とても嬉しかったから、ちょっとショックだ。
何が気に入らないかというと、文章が気に入らない。
品がなくて面白くない。低俗で読む気になれない。しかもめちゃくちゃ長いので時間の無駄のように感じてしまう。
何だか自分でも、よくもこんなに上から目線の悪口が出てくるものだなと思う。
文章に対するこだわりが強くなりすぎているだろうか。
よくわからないけど、生理的に受け付けないみたいに思うものが多い。
テレビ番組とかもそう、くだらないと思うと観ているのが耐えられなくなってしまう。過剰に嫌がって騒ぐ。
反対にいいものだと、こんないいものが世の中にあるんだぞ!みたいな、みんな見ろよ!みたいな、訳のわからんテンションになる。
要するに、いちいち感情の振れ幅が大きすぎる。
すべてはこだわりの強さなんだろうか。
我ながら本当に生きづらい。


今月は自分の休日がいくつかあったので、相変わらず好きな街に行って買い物をしたりして過ごした。
好きな服や本を集めることを生きがいにしている。そうすると心がほくほくする。
自分がよいと思うもので武装して生きている。
そういうもので固めなければ生きておれない。


職場でほとんど誰とも話さずに生活している。
その方が楽だからだ。放っておくとそうなってしまう。
来月から実習生をもつので、普段の社会性のなさが気になってしまうなとちょっと憂鬱になる。
あとこの職場にいるのも年度いっぱいだけど、仲良くしてる人いなさすぎて、私に餞の挨拶?する人選ぶとき困るだろとか、いらんこと気にしてしまう。
だからといって努力して定型発達装うこともうできそうもない。余計惨めになるから。
本当にそういうことを気にして生きるの面倒くさすぎる。どうでもいいわと思う。
藤井風みたいなテンションの言葉を紡いで生きていけたらどんなにいいだろう。
それが自分を大切にすることならそうしたいと思う。

坂口恭平さんの、『自己否定をやめるための100日ドリル』早速読んでいる。というかすぐ読み終わった。100日日記の方はさすがに読みきれないが。
自分をいじめないで、大切な人のように大切にする。あと自分をいじめてる具体的な人を特定する。
同じようなことが書いてある本はこれまでいくらでも読んだし、自分でも散々書いてきたけど、これほど泥臭い当事者としての過程を具体的に見せてくれた人はいなかった。
やっぱりこの人とは考えてることが合う。全部言葉にしてくれるから、そして無理をする生き方ができないから。そういう自分との付き合い方をずっと考えてきた人だから。

定型発達ばかりの職場にいると、自分を大切にすることが難しくなる。
いちいち周りと比べて落ち込んでしまい、自己否定につながる。やっぱ我々がこの世界で自己否定しないことは難しい。
しかし教員のなり手不足とかすごい言われて、この仕事もなんとなく捨てがたいような気もする。
何だかんだ夜な夜な教育哲学のラジオとか聴きながら寝ているくらいにはヤバい人である。
何だよ結局やりたいんじゃないかとも思う。
しかし今の職場が、自分のその情熱を発揮できる場所ではないような気がする。
川上康則先生は、学校現場をあろうことか夜と霧に出てくる収容所に例えて、人生からの問いに応答せよと言った。
正直それができるタフな人しか生き残れないし、結局現場は諦めムード、嘲笑主義に陥るしかないのは本当に無理もない。
これほど教育が魅力のない仕事に成り下がっているのだから、とんでもない時代になったものだと思う。また気が滅入る。大袈裟になっている。


しばらく書くことが思いつかないと思い書けなかったが、久しぶりに思ったことをありのままに書くことができた。
今週は生徒にもこのような徒然日記が書けることを見出して、そのことで現状がちょっと上向いたこともあり嬉しかった。
書くことの素晴らしさを私は知っているので、書けることを見出してあげられるならそれは人生の恩恵みたいなものだ。
書くことで自分の現在地を確認し生き続けていくしかない。

国立で昔から気になってたカフェ。プリンは重すぎた。

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