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老母と私の農作ノート14
昨日は母の助けを借りてやっと伐採した木の大半を焼却することができた。これは二週間も繰り返していた失敗を回復できたのだからかなりの満足です。やはり、亀の甲より年の劫ですね。
このことわざもすたれてしまったのかな。鷲田清一さんの文章に「真の自立について」と題されたものが教科書に載っています。それには年老いていくということを現代では悪くとらえていることが多い、昔は「老いた人」は尊敬の対象だったとあります。
「長老」や「老師」などがそれにあたるでしょうか。江戸時代では「老中」や「若年寄」とかも老いという言葉や意味に尊敬を含ませています。
前述の鷲田さんの言葉によれば、これは現代社会が人を「できる・できない」の一元的とらえ方で見ているからいけないのだということです。できる人は素晴らしい、できない人は不要だ。老化というのは「できないこと」が増えていく過程でもあるのですね。
老人が希望を失うような社会に未来はありません。すべての人が生きている限りは「老人」となっていくからです。日本社会は「老人」をお荷物としかとらえない政治をしています。
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役人というのは頭が固いから発想の転換ができないのかな。もっと柔軟な考え方で老人が生き生きとしている社会を作れば、少子化問題も老齢化問題もはたまた若者の自殺率の増加問題もきっと解消するに違いない。
そんな気がするのですが、あなたはどう思いますか。
妻の知り合いに「老人ホームと幼稚園を合わせた施設」を経営している女性がいます。今度は二番目の施設を作ろうとしているとのことですが、発想が素晴らしいですね。いろいろなおじいちゃんやおばあちゃんと常に交流を持てる子供たちの未来は、きっと素晴らしいものになると思うのですがいかがでしょうか。
さて、話は中国雑技団のお姉さんの腰ほど曲がってしまいましたが、来週の目標は畑予定地に生える一本の木・・・何の木だったか忘れました(笑)この木を邪魔にならないところに植え替えようという目標です。これは半日では終わらないでしょう。土日の両方を費やさなければならないかも。いいえ、その程度で終わればいいけど。
ほかにもバラが数本あったから、そちらのほうなら簡単に植え替えられるかな。この時期に植え替えてもいいのかは母の許可をもらっています。母は「業者を呼んでもいい」と言いますが、出費が大きいかもしれない。私の力でやってみることにしています。
いろいろと考えるとあの木はかなりでかく直径も20センチ近い。1メートルは掘らんとなあ。来週はバラの植え替えくらいにしようかと日和ってしまうのですが、さてさてどうなることやら自分でもわかりません。
昨日は帰ったら昼食替わりにカレーパンを妻が作ってくれていました。