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老母と私の農作ノート74
静かな一日
今日は、穏やかで静かな休日だった。朝の冷たい空気を吸い込みながらウォーキングをして、一日の始まりを感じる。それ以外はほとんど家の中で過ごした。妻は仕事に出かけている。平日のルーティンを離れた家の中には、不思議な落ち着きがあった。
その日のメインタスクは掃除だ。妻から「掃除機をかけて、床を拭いておいて」と頼まれていた。もともと掃除は嫌いではないが、楽しみでもない。とはいえ頼まれた以上、やるしかない。まず掃除機をかけるところから始めたが、ふと目に留まったのはテレビの裏だ。埃がびっしりとたまっていて、どうして今まで見過ごしてきたのだろうと思うくらいだ。ついでに洗面台も掃除することにした。水垢が少しずつ溜まっていた部分を丁寧に磨き上げると、すっきりとした気分になった。掃除というのは、どこかで自己満足と自己解放の作業でもあるのかもしれない。
そんなことをしながら、母のことを思い出した。母は掃除が苦手だ。けれど今日は「新年会に行ってくる」と電話で嬉しそうに話していた。彼女は実家で一人暮らしをしているが、寂しいと思ったことは一度もないという。毎日のように誰かが訪ねてきたり、自ら出かけたりしている母の生活は、賑やかで満ち足りているように見える。年齢を重ねても、あれほど活動的でいられるのは本当にすごいことだと感心する。
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ただ、母と私はまるで正反対だ。私は友人がほとんどいない。意識してそうしているわけではないが、気づけば家族と親戚だけの付き合いに満足している。それ以上の人間関係を求める気にはならないのだ。そういう気質なのだろう。父も同じような性格だった。休日には家で本を読み、静かに過ごすことを何よりの喜びとしていた父の姿を、今の私は受け継いでいるのかもしれない。
掃除を終え、床がピカピカになった部屋に一人腰を下ろす。家の中は静まり返っていて、窓から差し込む午後の日差しが暖かい。この静けさの中にいると、外の世界とのつながりが薄れていくような気がする。それでも不思議と寂しさはない。母の賑やかな生活に比べて、私の生活は随分と質素に見えるだろうが、それが私にとっての「普通」だ。
ふと思う。この静けさや孤独が、人によっては耐え難いものかもしれない。しかし私にとっては、それが自然なのだ。母のように多くの人と関わりを持つ生き方も素敵だと思うが、それが自分にはできないのだろうとも思う。結局のところ、人はそれぞれの気質に合った生き方をするほかないのだ。
夕方、妻が帰ってくるときっと「よく頑張ったね」と笑顔で褒めてくれるだろう。それを想像しながら、今日という平穏な一日をしみじみと味わっている。この静けさが、私の心にとってのささやかな安らぎなのだ。