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老母と私の農作ノート105

日曜日、それは週間の終わりにある精神的休養日。普段の喧騒から解放され、何も予定がない日として俺が期待していたものだ。しかし、今日はどうもそうはいかないらしい。昨夜夜更かしした私は、零度の寒さを言い訳に布団にくるまってゴロゴロし、午前中を無駄に過ごそうと決めていた。自宅のぬくもりと自堕落な自己を許容する時間を楽しむ、些細な喜びを堪能していたのだ。

昨日はいつものように実家まで行き、片付けに庭の整備を行い、すこし筋肉痛が起きるほど体を動かした。そのあとは妻と共に買い物に出かけ数件の店を回って荷物持ちとドライバーをこなしていた。ゆっくりとした日曜日午前中の時間はささやかな褒美としてもらってもいいではないか。

ところが、それは突然、意図せぬ不協和音によって打ち砕かれた。近所の選挙事務所が、これでもかという大音量で出陣式を始めたのである。ただでさえ静かだったこの町の人々の心に、彼らは何のためらいもなくその音を投げつけた。まさに、興味のない映画の予告編が永久に続くような絶望感だ。

うるささは30分以上も続いた。拷問のようであったが、逆にその騒々しさがなければ、こんな寒い日に骨身を削って外出する自分を想像できないと思った。そして、その候補者が演説を通じて伝えたいメッセージが、瞬時に「絶対に投票しないぞ」という固い決意に変わったのだから、驚くべき心理的効果である。多くの町の人々も同様に、心の中で「落ちてしまえ」と呟いていたことだろう。

客観的には、選挙戦開始の出発点である出陣式は大切な行事かもしれない。候補者本人は、その意義の大きさに既にフェンスを剥し、声のボリュームをどうにか最大限に上げようと決意しているのだろう。だが、冷え冷えとしたこの町では、騒音がただのノイズに過ぎないことを知らなかったようだ。

ここで思うのは、適度というものだ。候補者は民衆の心に訴えたいのなら、せめてボリュームを少し絞るくらいの工夫をしたらどうだろう。牛の鳴き声のように響くあの演説がなければ、少なくとももう少し穏やかに日曜の朝を謳歌できたはずであった。

町の人々にとって、この選挙の始まりは、新たな政治への希望ではなく、単に午前中を壊された不快な体験に過ぎなかった。その候補者が当選した暁には、また別の『騒音』が待っているのかもしれない。いずれにせよ、のんびりしていた日々を取り戻せる日は戻らないだろう。人迷惑が過ぎる街中の喧騒、こうして私たちは徐々に意に反しつつ、「何もない」本当の静けさを求め続けるのかもしれない。

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