インターネットというより、スマホが村を変えてしまった
インターネットが普及しはじめて、私がプロバイダーと契約したのが、1996年の初めだっただろうか。携帯電話をはじめて持ったのも、そのころからだったか。その後、スマホの普及まで、15年を要したようである。
インドネシアとは、インターネット以前からのつきあいであるが、その頃と比べると今は隔世の感がある。すでにあの頃のようなつきあい方はできないなと思いながらも、まだあの時の感覚を忘れられない自分がいる。
今回は、かつての私のインドネシアとのつきあい方を思い起こしながら、そこから何かを紡ぎ出せればと思いつつ文章を書こう。
92年だっただろうか。91年だったかもしれない。調査には、ポラロイドカメラを持っていくといいと言われて、持参していたんだと思う。調査対象の建築を撮影して、出てきた写真に文字や寸法を書き込んで記録をしていたのだろうか。記憶は曖昧である。お世話になったお礼にポラロイドで写真を撮ってあげるといいよと先生に言われたと思う。
ロンボクだったと思うが、車をチャーターして調査地へ移動する途中で、休憩のために停ったどこかで、一面田んぼでおおわれた地区の一角に建つ一軒家に、家を見せてもらおうと訪れた。
日本から来て、建築を勉強していて、インドネシアの家に興味があるので家を見せて欲しいと、もう500回ぐらいは言ったであろうセリフを、覚えたてのインドネシア語で伝えたと思う。
小さい子どもを抱えたお母さんが対応してくれたと思うが、一通り家を見せてもらった後に、お礼の気持ちもあって、お母さんと子どもをポラロイドで撮影して相手に渡して退去した。
ポラロイド写真は取ったばかりは真っ白で、渡された彼女も何を渡されたのかがわからないまま、渡されるがままに受け取ったのだと思う。
畦道を歩いて車に乗り込もうとした時に、その家から大きな叫び声が聞こえた。驚愕の叫びである。大騒ぎである。
その時、自分がどう思ったのかはもう覚えていない。いいことをしたと思ったのかもしれないし、バカなことをしたと気づいたのかもしれない。
ただ、その後何度となく思ったのは、写真を渡すという行為は、単に写真というモノを与える行為ではなく、他者に見られている自分を認識させてしまう行為だったということである。
もちろん、ジャカルタやスラバヤやジョグジャなどでは、その当時であってもそんなことはないだろう。だが、ロンボクの僻地である。
すでにバヤン村には電気は来ていたが、易々と使えるようなものではなく、電話もなかったと思う。トイレも村に1つしかなく、みんなで一緒に順番待ちをしていたし、トイレが壊れると、川でするしかなかった頃である。
その家にも電気が来ていたかどうかも怪しい。鏡がその家にあったとも思えない。
インターネット以前は、世界はバラバラで、ロンボクの村の人々は、閉じた世界で生きていた。
私は、招かれざる人として、その閉じた世界に降り立ったのである。招かれざる人と書いたが、彼らは熱烈に歓迎してくれた。日々、あちこちに連れて行ってくれては、いろいろな人と交流の機会を与えてくれた。しかし、私自身の思いとしては、自分は招かれざる人として、ここにいるのではないかという気持ちが強かったのである。
閉じた伝統的な社会を研究するためにやってきた外国人は、その存在自体が、伝統に力を加え、伝統を歪める存在としてそこにいる。その矛盾を感じながら、そこにいた。自分を認めようとすれば、特権的な立場を自分に与えざるを得ない。他の外国人は伝統を歪める存在なので、立ち入ることは禁じられるが、自分は特別な存在なので認められるというロジックである。自分が認められることに、なんの根拠もない。
日本の、あるいは近代社会の近代建築理論での行き詰まりを乗り越えるために、近代社会とは異なる社会の中で、建築がどのように捉えられ認識されているのかを明らかにすることが必要であるというのが私のモチベーションであるが、そんなこと、彼らは知ったことではない。
私は、そうした認識のもと、社会をその空間を理解するためにそこに滞在するが、空気のように気配を消して滞在するように努力した。
何も持ち込まない、というのが自身に課した第一のことである。現実的には自身が存在しているので、それは無理であるが、日本の高性能な何かや、日本の身体に優しくよく効く薬や、トイレットペーパーや味噌汁や何もかもである。
裸の人間としてそこに降り立ちたかったのだ。
インターネット以前、あるいはスマホ以前の話である。契機はインターネットだと思っていたが、もしかするとスマホの方かもしれない。
インターネットは、世界を一つにした。1990年台の終わりごろには、メールを介して、インドネシアの建築の大学の先生や研究者と連絡を取り合っていたと思う。時を同じくして情報を共有し、瞬時にやり取りができるツールとしてインターネットは画期的であった。
しかし、村の人たちと、それでやり取りができたかというと実際はそうではなかった。PCを買うお金がいないし、その必要性もないので、彼らはPCを持つことがない。インターネットカフェが、やり取りの際の拠点として考えられるが、村にインターネットカフェがあるわけもない。
今や各家がインターネットにつなぐべく契約し、スマホを通じて、インスタやFacebookでつながっているが、おそらくそうなったのはここ10年の話ではないか。
スマホでネットにつながるようなれば、裸の人間であろうが、服を着た人間であろうがどうでもいい話である。日本はサムライがちょんまげをして刀をさして歩く国ではなく、引きこもりのニートばかりで皆が結婚しない不幸な国なのである。
かつての私は人類学者のようにふるまうことを目標に生きていたが、今や村の観光施設を提案し村の人たちと議論する関係である。補助金を狙って、大学と組むことで優位性を得ようとする思惑にどっぷり浸かってしまっている。241114