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バヤン散策

9時にマタラムまで迎えにきてもらって出発。村に着いたのは昼11時過ぎであった。食事の後、周辺を散策した。学生にとっては、単に連れてこられただけの村。事前に過去の関連論文を読ませてはいたが、現地をリアルにイメージすることは難しい。加えて、泊めてもらっている家やその周辺の家々は伝統的な集落とは言いにくい環境にある。泊めてもらっている家は水色に塗られたモルタルの壁とタイル貼りのテラス、寝床として用意されているのはマットレスやベッドである。テラスからいつも目に入る斜め左向かいの家も、プリントされた石のシートが貼られたモルタルの壁の家である

なぜこの地が調査対象地として選定されているのかを知る上でも周辺の散策は必要であった。まず向かったのは村の中心にある木造のモスクである。入り口でサロンを着せられて向かった。イスラームの伝道師がジャワから各地にイスラームを伝えた際に、ロンボクで初めて建てられたモスクとされるもので、正確な建設年代はわかっていないが、ロンボクへのイスラームの伝道は一説には1545年とされるので400年以上前と考えられる。竹の屋根材をはじめ、多くの材料は葺き替えや修繕で新しいものに代えられていると考えられるが、中心の4本の柱は古いものだと言われている。ロンボクの主要な4つの地域を統合する意味を持つとされ、また方形(宝形・ほうぎょう)の2重の屋根は、ジャワのモスクに多く見られる形式であり、先日見たジョグジャのカウマン・モスクも、こちらは大モスクだけあって3重の屋根であったが、同じ形式である。ジャワの影響を見ることができる。

小高い丘に設置され、周囲にはマカムと呼ばれるイスラームの聖人の墓とされる建物がいくつか配置されている。これも竹材で屋根を葺いている。この丘がロンボクへのイスラーム伝道に際して特殊な場所として位置付けられていたことがわかる。

東バヤンと西バヤンをわかつ道の東側に位置するが、東バヤンとも小さな谷を挟んで区別された場所である。地形に喚起された聖地であると言える。
元々はイスラームのモスクとして日々の祈りの場所として使われていたと考えられるが、現在は日常的には使われることはなく、この場が中心となるのは、9月のマウリッド(ムハンマド生誕祭)の時である。バヤン村に固有の信仰であるウェトゥテル信仰の影響を色濃く残す祭りでもあり、多くの観光客が訪れている。

モスクの次には、その北東に位置するカランバジョに向かった。東西バヤン村とは異なりカヤや竹や木材を用いた伝統的な形式の住居バレが今も多く見られる。モスクから裏道を抜けて向かうと、儀礼場であり聖域であるカンプの横を通り抜けて大木のある広場に出る。広場から緩やかな傾斜に従って、下りながら住居とブルガが並んでいる。ブルガを両側からバレが挟みながら、並列に配置されている。

バヤン地域の住居集落構成の基本型を理解するにはわかりやすい地区である。一軒のバレに入れてもらった。イナン・バレを確認するためである。イナン・バレは土間で構成された住居内部に設けられた高床式の倉である。6本柱で床高は120cm前後、バレ前面に向けて入り口を持ち、大きな床とそこに登るための床を前面に持つ。一説に穀倉型住居と呼ばれる所以である。はじめに穀倉が生まれ、穀倉とともに住むことを通して住居のかたちが生まれたと言える。

西バヤンも並列に住居とブルガが並ぶ形式は同様である。なだらかな斜面にそって、リンジャニ山のある南側に向かって集落が構成される。リンジャニ山と海とを結ぶ南北方向の軸に従って建物が配列されている。西バヤンと我々が便宜的に読んでいる地区には、正確には北側のカラン・サラと南側の西バヤンとに分けられる。聖域であるカンプがそれぞれ存在しているが、それ以外のエリアでは伝統的な形式を持つ住居はほとんど見ることができなかった。

この日、前日入りしていた金沢大学チームと合流した。240822

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