大学院の授業でカウマンへ
研究室(UGM)のマスターコースプログラムの一環で、カウマン地区の調査を行なっている。学生たちは断続的に1ヶ月ほど作業を行なっていて、成果物の輪郭が見えつつある。地域の歴史や社会組織などの概要把握を終え、いくつかの建築の実測を行いつつあるが、今回はカウマン地区に在住する建築家であり、かつてのIAI(インドネシア建築家協会)の会長でもあったムニチィ氏Pak Munichyの自宅にお邪魔して、カウマン地区を考える上で押さえておくべき基本的な考え方についてお話を伺いながら、意見交換を行った。
2022年にアトマジャヤ大学の学生を対象に授業を実施したことがある。その時は、チョデ川沿いのカンポンを対象に、カンポンの空間の特質を把握し、将来的にそのエリアがどうあるべきかを検討するものであった。全体を7つのチームにわけ、それぞれ異なるエリアを割り当て、担当エリアの中のいくつかの住居の実測を行うとともに、居住履歴に関する基礎的なデータの把握を行ってもらいつつ、路地空間の物品配置調査を行いながら、外部空間の特徴について考察してもらうものであった。学生のプログラムは、全3日間だったか4日間だったのプログラムで行ったが、学生が作業を行なっている間、アトマジャヤの先生たちと一緒に、ジョグジャ内のいくつかの場所を訪問した。対象とするカンポンは、建築家マングンヴィジャヤがアガカーン賞をとるきっかけとなったカンポン・チョデの川向かいのカンポンであったので、当然のことながら、そちらのカンポン・チョデにも行ったのであるが、その際初めて行ったのが、カンポン・カウマンであった。
建て詰まりが進んでいる部分もあるが、グリッドの街区構成がみられ、計画性を感じることができるエリアである。アルンアルン(広場)西の大モスク脇のカンポンであり、イスラームの聖職者や王宮に関連するバティック企業や職人などが住んでいた地区である。マタラム王国が分裂した際に、ジョグジャカルタとともに王宮を置いたスラカルタにも同じくモスクの脇にカンポン・カウマンがある。ともに、正方形に近いアルンアルン(広場)の西側並びに北西に街区を構えるので、矩形街区に北東に規模の小さな街区が加わるかたちになる。同じ名称、同じ位置、同じかたちである点が興味深い。
翌年の2023年にジョグジャカルタを訪れた際にはカンポン・カウマンを調査対象としたいという思いを持っていたので、カウマン地区内の宿に泊まったのであるが、その宿のオーナーと話をした時に、建築をやっていてカウマン地区に興味があるのなら、親戚に建築家協会の会長をやったことがある建築家がいるから会うといいよと紹介してもらった。それがムニチィ氏であった。残念ながら、その時は会うことはできなかったのであるが、今回会うことができたのは、その縁もあったのではないかと思う。
18時半から20時半までとのことだったが、私は18時にはカウマン地区には到着していて、ぶらぶらした後、15分には自宅をお邪魔した。誰もいなかったので、1対1で話をする機会を得た。隣の宿に泊まって姪っ子さん(話をする中で判明した)に会った時の話から始まって、IAIの金賞を最近受賞したことや、新首都のプロジェクトの話、カウマンの魅力などについて話をした。UGMの学生・教員は15分遅れて来たので、30分ほど2人で話したことになる。貴重な時間であった。
会合自体は基本的にインドネシア語で行われたので、今の私のインドネシア語の能力ではなかなかついていけなかったが、イカ先生が随時日本語・英語で解説してくれたので、概略は理解することができた。印象的だったのは、道路に面した住居前面のブッ(腰掛けられる階段状のスペース)の話であった。住居に入るためのことだけを考えれば、入り口の前に段差を設ければいいだけの話だが、ここでは、入り口だけでなく道路沿いの部分全面に段差が設けれられている。これは、住居を開いて、まちの多くの人たちに休憩してもらったり、語り合ったり談笑してもらったするためのスペースであり、人々のために自分の家を開いていこうという発想の現れであるとのことであった。イスラームの信仰をベースに、隣人を愛することの表れとしてのブッであるというような文脈が垣間見えたが、そこは曖昧なので、また誰かに確認してみようと思う。
参加者は全員で15名であった。ムニチィ氏、研究室の教員5人、私、そのほかの8名は修士の学生であろうか。最初にイカ先生が、私のことを紹介してもらったので、彼らとも接点ができた。おいおい関係を深めていけるといいと思う。240923
このnoteは日記のはずなのに、最近何か違うものになって来たので、つとめて日記にしてみた。オチなし。