バスに乗ろうと意思表示すると去っていくバス
マリオボロ通りでサテを食べた後、家に戻りつつガレリア・モールに行こうとバスに乗ることにした。マリオボロ通りからは直接いくバスはないため、一本西の通りまで歩いて移動した。教会の前のバス停からバスに乗った。カンポン・カウマンで調査していた時に、帰りにバスを利用した時に使ったバス停である。
バスの時間は一応決まってはいるが、時間通りに来ることはほとんどなく、暑い中いつ来るとはわからないバスを待たないといけない。おまけにバスの乗降口が1m程度の高さのものがあるため、バス停は1m程度の高さのところに設けられていて、地面より高い位置で待たないといけない。このバス停は屋根や囲いのないバス停であったので、太陽の照りつける中、待ち続けるのはなかなか大変であった。
ここのバス停には3路線のバスが通るのであるが、そのうち2路線は目的地へと運んでくれる路線であった。最初に来たバスは、別のところに行くバスであったため、乗らないという意思表示を運転手に対して行った。手を振ったのかバツを提示したのかは覚えてはいない。だが、バスは止まることなく去っていった。
さて、次のバスである。遠くから目的のバスであることが認識できたので、高さ1mのバス停の上に立ち、運転手に見えるように手を振った。果たしてバスはスピードを緩めることもなく、走り去っていった。手を振る動作を、乗らない意思として受け取ったのである。
仕草は文化的なものであり、日本でイエスの仕草が異文化ではノー、日本でノーの仕草が異文化ではイエスと理解されることがあるということぐらいはわかっていたつもりであるが、不意をつかれたように、バスは何事もなかったように走り去っていったのである。
乗りますという意思表示としての手を振る行為が、乗らないという意思表示としての手を振る行為として認識された瞬間であった。実際、何が問題であったのかはいまだにわからないのであるが、手を横に振る行為が「よろしくお願いします」という意味を表しているつもりであったが、「必要ありません」という意味を発生させたと思われる。
よく知られるのが、首を横にふる仕草が、インドやスリランカではイエスの意味であり、日本とは正反対であることである。ボディーランゲージが国によって異なることを理解していたつもりが、不意をつかれた瞬間であった。
果たして、その次のバスで無事バスには乗れたのであるが、疲れ果ててしまって、違う目的地についてしまったのであった。(写真はマリオボロ・マーケットで食べたサテ)241005
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