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ジョグジャの避暑地カリウラン

カリウランがジョグジャの第3の観光地として人気だそうだ。第1がジョグジャの南のビーチ、第2がプランバナン寺院、第3がカリウランだそうだ。ここはオランダ統治時代に避暑地として開発されたエリアである。

一般にそうしたエリアは、ヒル・ステーションと呼ばれる。植民地時代に、低地の都市部とは別に標高の高い涼しい場所に避暑のためのエリアとして開発された都市なり地区なりをヒル・ステーションと呼ぶ。

植民地支配との関係でいえば、イギリスによるインド統治にその起源がある。1800年代前半に高地に療養所を求めることから始まり、その後、避暑リゾートとして開発されるようになった。

東南アジアであれば、フィリピンのバギオ、カンボジアのボコール・ヒルなどがあるが、インドネシアでは、ボゴール、バンドゥン、マラン、ブキティンギなどが知られる。オランダ領東インドには23のヒル・ステーションがあったとされる。

カリウランはジョグジャカルタの中心部から約30km北方に位置している。かつてはジョグジャのスルタンの土地であり、後に藍農園となったが、林業局が再植林した。20世紀初めに、都市部の暑さを避けるための観光の地になると、道路が改善され、オランダ人によって休憩所や別荘が建てられた。1919 年にジョグジャカルタ市の法令によって住宅地に指定され、1927年にはハメンクボウォノ8世によって迎賓館が整備された。

ヒル・ステーションとあわせて近年注目されているのが、1948年のインドネシア独立に関する協議の場としての位置づけである。インドネシア独立につながる3国委員会(KTN:Komisi Tiga Negeri)がこの地で開催された。アメリカ、ベルギー、オーストラリアの代表が、インドネシア・オランダ間の紛争調停のために協議した。スカルノも参加し、現在のウィスマ・ムラピ・インダ1に宿泊した。

この地は、ムラピ山をはじめ北の山々が美しく見えるとともに、ジョグジャカルタの中心部や海岸ならびに海沿いの山々も眺めることができる。その当時、プール、テニスコート、トラッキングコース、健康施設なども整備されたという。

1912年には12件の別荘があったとされ、1911年から39年の間に北西のエリアが開発され、その後1945年までに南東のエリアが開発されている。2012年の調査によると、その時点で約30件が現存しているという。

オランダ人が所有していたレストハウスは、私的なものであったが、独立後地元の人々が所有するものとなり、その後、多くが宿泊施設に変わっていった。2002年の時点で6割の建物が誰もが使えるような宿泊施設となっていたという。

1939年には宅地面積に対する建築面積(建ぺい率)の割合が、1.1〜21.5%だったものが、2012年には1.9〜38.8%となっている。もう少し詳細にみるとパーセンテージが1桁台のものが、18件から14件、10%台のものが9件から11件、20%台以上のものが1件から3件であり、若干の増築がされただけで半分が建ぺい率は1割に満たず、4割のケースで建ぺい率が2割以下だということがわかる。

眺望に関しては、ジョグジャカルタ市街地ならびに海側の眺望を持つものが6割、ムラピ山など近隣の山々ならびに中庭に眺望を持つものが4割である。建物の向きも道路に向いているのが4分の1、眺望を意識して配置されているのが4分の3だという。

水源は周辺の3箇所の泉に求めていたが、そのうち1箇所はムラピ山の噴火の被害を受けて現在は使われておらず、現在はその他の2箇所の泉を水源としている。

論文では、この地の価値あるいは現存するオランダ時代の建物の価値が共有されず、劣悪な改変が行われたり、歴史的な建物が取り壊れることを危惧しているが、すでに地区の景観の保存に向けて動きが生まれつつあるようである。

私個人の関心としては、オランダ時代に避暑地がどのように捉えられていたのか、それが現在どのように変わりつつあるのかを調べてみたいと思う。プール、テニスコート、療養施設、トレッキングコースの話があったが、それらの当時の具体的な実態を明らかにしつつ、観光や避暑というものが当時どのように捉えられていたのか、また近年観光地として人気が出てきたことで、どういった施設ができつつあるのか、またどういった場所が評価されつつあるのか等を知ることで、風景の捉え方や場の捉え方の変化やインドネシア人的風景観を知れるといいと思う。

まあ、それはそうと、グラブで1000円ぐらいで行けるみたいなので、とりあえず行ってみようかと思う。240930

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