ウィズダム・パークで、インドネシアの公園について考える
土曜日にウィズダム・パークに行く機会があった。特に目的を持って行ったわけではないが、歩いていたら素敵な公園があったので、吸い寄せられるように訪れてしまった。家から歩いて15分の距離にある。
2013年に整備された公園である。Lembah UGM通りとノトナゴロ通り沿いに公園はある。Lembahは谷という意味である。その名からわかるように、整備されるまでは自然豊かな谷だったという。
ウィズダム・パークは、北東から南へ抜ける道路によって、北と南に分けられる。今回は主に南部を散策し、その快適な環境に魅了されたが、道路下のトンネルでつながった北側にも、南側とは異なった魅力的な場所があるようである。
北側は、湖を中心とした森と丘のゾーンと、フードコート、トロピカル・ガーデン、体育館がメインとなる。水上にせり出した展望デッキや見晴らしの良い丘、湖を巡る散策路を通して、都市の中の自然を感じることができる。南北ともにあるのが、円形劇場である。様々なイベントやパフォーマンスが行われる場になる。
道路下のトンネルを抜けると、川沿いの散策路を巡ることになる。ウォーキングやジョギングをしている人も多い。川にはなだらかな斜面で接しているため、川原の草の上や周りのちょっとした石段に腰掛けてゆったりとした時間を過ごすことができる。音楽を聴きながら本を読んでいる学生もいる。同性・異性との一緒の時間を過ごしている若者たちも多い。もちろん家族づれも多く見ることができる。
エントランス広場は南側に設けられている。半円形の広場であるが、高さ7-8mはあると思われるゲートは印象的である。川をはさんで向かいには伝統的住居を模した建物があったり、バスケットボールコートがある。学生たちであろうか10数名でバスケットを楽しんでいた。
この公園の設計者は、ガジャマダ大学工学部建築学科のディディク・クリスティアディ氏とハリアナ氏であり、UGMのHPによると、2010年に行われたWISDOM 2010イベントの6つの主要テーマをもとにしているという。1.多文化主義の管理:複雑さと矛盾、2.グローバル世界における教育: 継続性と変化、3.環境の管理: 過去から学び未来へ、4.テクノロジーと社会文化的変化、5.ヘリテージ観光と創造的経済、6.地元の知識と世界の健康がテーマとして挙げられた。建築学科のHPにはハリアナ氏の情報はなかったが、ディディク氏はコロラド大学でランドスケープと都市デザインの修士を修めたランドスケープ・アーキテクトである。
この公園は、ガジャマダ大学の社会貢献の一環で作られている。日常的に地域住民をはじめ一般の人たちが訪れる場所になっている。UGMの言葉で言えば、「持続可能な開発に向けた教育、研究、地域社会奉仕活動を促進する取り組みの一環として」整備したという。教育や活動が強調されているが、洪水防止施設としての貯水池の整備や都市内の緑地の管理・保全やレクリエーションの場の提供は大きな成果であろう。現在も機能しているのかわからないが、飲料水の循環システムも作られていて、ここからUGMキャンパス全体に飲料水が提供されているという。
公園というものに昔から興味がある。一つは人の集まる場所としての広場は、どうあるべきかという問いである。一つは、美しい風景を設計する際に、風景の美しさを人はどう設定するのかという問いである。
きちんと答えるには検討を深める必要があるが、ウィズダム・パークでは、6haという広大なエリアを、元々の地形を活かしながいくつかのエリアに区分し、それぞれのエリアに特徴を持たせ、現代的かつ社会的なニーズに対応している。
既存の地形を活かして、湖と森の風景を眺めるための視点場の整備や、湖や川の側の散策路、川辺のたたずむ空間といったリクリエーション空間が整備されている。日常的に多く人が、自然に触れることを目的に集まれる場を作り出したことは、ジョグジャの都心部にそうした場が少ないことからも、その価値は大きい。
公園全体を巡っている周回ルートでは、ジョギングやウィーキングをする多くの人が見られ、日常的な運動による住民の健康増進に大きく寄与していると言える。
イベント開催のための南北2箇所の円形広場、並びに南のエントランス広場はイベントの際に多くの人が集まることのできる場所を提供している。
フードコートや体育館、トロピカルガーデン、バスケットボールコートは、いずれも目的が異なるが、それぞれの目的で集まることのできる場所である。
そうした多様な目的に対応する場が、公園全体に散りばめられることで、何らかのかたちで人の動きを感じることのできる空間となっている。
もう一点の美しい風景という視点での考察は、なかなか難しいが、個人的には、高台から森と湖を見下ろす風景や、静かに流れる川・川原にたたずむ人々・橋の上を行き交う人々によってつくらる風景や、UGMモスクのミナレットを遠景に捉えながら、川原と川の流れとたたずむ人々によってつくられる風景も美しいと感じた。
ただこれは私の感じる美しさであり、インドネシア人が感じる美しさとは異なるであろうし、何よりも、そもそもインドネシアには、あるいはジャワには風景という概念はないという話もある。学生時代に読んだ土屋健治の『カルティニの風景』を再読しながら、インドネシアの風景観についてはちゃんと考えたいと思う。
この文章を書く中でインドネシア・イスラム大学の学生の卒論を見つけたが、公園・広場・風景に関心のある学生とまた議論ができるといいと思う。241007