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己の好奇心への挑戦

私は、生来好奇心の強い性格だと思う。しかし幼少期は、図書館やレンタル品に抵抗のある母親の性格、そして核家族でワンオペ、きょうだいが多く、両親ともに当時としては高齢だったのもあり、私の好奇心は全く満たされることも達成感も知らずに時が過ぎた。
そして、小遣いも行動範囲も親からの管理もある程度自由が効くようになった高校生活で、その好奇心が爆発することとなった。

その時の私はフラフラで、気持ちは落ち込んでいた。引きずるような重い足取りで高校に登校し、事前に連絡していた美術部の顧問の先生と約束していた部室に入った。そこには既に先生がいた。
「もういらしてたんですね」
「ああ、俺は朝が早いから」
 そんな会話をしたような気がする。鞄を置き、私は自分の席に着いた。
「で? 相談ってのは?」
 私の様子を見ていた先生が、タイミングを見計らって言った。
「美術部を辞めたいんです」
 私は緊張しながら言った。
 返ってきた答えは意外なものだった。
「なんだ、そんなことか。わざわざ連絡してきたから、もっと深刻なことかと思った。」
 先生の拍子抜けした、軽い声が部室に響いた。
「でも私、大変で…兼部するのに、もういっぱいいっぱいで。でも、嫌になったワケじゃないんです」
 私はあくまで真剣に事情を話した。しかし、先生からの返答の声はまたしても軽いものだった。

「なら、全部、やっちゃえばいいんだよ」

 目から鱗だった。
 当時、私は4つの部活に兼部していた。最初に入ったのは茶道部。これはもともと興味があった。また、クラスで仲良くなった子が美術部で、誘われて入ったのがこの美術部。他にもパソコン部と写真部にも入った。写真部は興味があったのと廃部寸前で歓迎されたのは覚えているが、経緯の詳細は覚えていない。パソコン部に至っては全く覚えていない。
 かつて、市内でワースト一位と言えるほどの荒れた中学を卒業した私は、「高校は自分のやりたいことを存分にやるぞ」と張り切っていた。それゆえに詰め込みすぎ、自分のキャパシティも分らなかったのだ。睡眠時間の削り、かつてみなぎっていたやる気もすっかり減り、「兼部を止めよう」と決意したと同時に、「諦めてしまった」という絶望感もあった。そして最初に相談した顧問の先生が美術部の先生だったというわけだ。
 先生はその場で「整理しよう」と言った。
 私は何をしたいのか。茶道は絶対に辞めたくない。写真は興味がもともとあった。パソコン部は“パソコンを使って何かをする”という部活で、私は小説が書きたかった。写真の編集もできる。これも譲れない。絵を描くことも好きだったから、友人に誘われて入ったわけだが、美術系の進路を考えている友人の作品を見て(自己過信していたわけではなかったが)「描きたい」という気力が失せてしまった。今思うと、小説や写真ではそんな風に思わなかったから、それほど情熱もなかったのだとも思う。
 先生からのアドバイスは以下の通りだ。
一眼レフのカメラの扱いや構図などについては、美術部顧問の自分が教えられるし、現像の事を考えると、写真部の退部は止めた方が良い(部室が使えなくなるから)。そもそも、文化祭の準備が始まるまで活動は各々でしているような部活だったので、入部していても支障はないだろう。パソコン部も、写真の加工などをやってみたら、それはもう美術と言える。そうしてできた作品を美術部として文化祭に出してはどうか。今の部員は絵画志望ばかりだが、絵画だけが美術ではない。文化祭の準備はこちらは人手が足りてるし、パソコン部も十分に部員数がいる。展示は他の部員に任せ、前日と当日は茶道に注力してはどうか、というものだった。
 私は、再び目から鱗が落ちた。
 正直、「のんびりしたい」という気持ちがなかったわけではない。なので、すんなり辞めさせてもらえない流れにいささか残念に思った。しかし、私は先生から言われたことを参考に自分の希望を付け加えて考え直し、全て続けることにした。

 後から自覚したのだが、私の中で「諦める」という選択肢が消えていることに気付いた。何か困難に向き合うと「じゃあどうしよう」のフラグが立つ。
 そしてこれは目に見えない財産だと、今になって気付いた。そして、思ってもみなかったところに財産があったのだという発見も然り。

 ウェルビーイング、という言葉を最近知った。
 本質的な幸せ――と考えて良いのだろうか。
 人生、色々なことがある。辛いことも楽しいことも、成功も失敗も。
 ウェルビーイングを実現したり自分がその状態に近づく経験を、この時も意識せずにしていたのだと思うと、感謝しかない。
 今ひとつ、向き合っているウェルビーイングが叶ったら、そして仕事や金銭面の都合が付いたら、先生に会いに行きたいなあと思う、今日この頃である。

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