ナマモノ思考
三日坊主の自分にとってこの記事が6記事目になるのはまぁまぁ凄いことだと褒めてあげても良いかもしれない。
バイトは続くが自分しか関わらない事はなかなか続かない。
いやその理由も自分のことが好きじゃないからかもしれない。
自分を変えようとして何かを始めても「どうせ」という枕詞がついてしまう。
特に創作に関しては顕著だし、今5日続いてるこれも誰かに見せるために書いている訳ではない。
ただ自分の考えたことの記録として残しておこうかなという軽い気持ち。
それくらいが一番良いのかもしれない。
自分を変えようとか、自分のスキルアップのためにとか、そういう自分に前向きな考え方だとむしろ自分の中で前向きと後ろ向きが混在してしまい後ろ向きが最終的に勝ってしまうような気がする。
自分を好きになるのは難しいなぁ、と常々思う。
見た目を好きになるのはまだ容易いが、内面は目にも見えないしひとつのものに対する考え方も答えはない。
毎日家族や友人、バイトで接する他人との会話の中で新しい価値観が生まれたり違う考え方を分けてもらったり、同じ思考は二度とできない。
仕入れた情報が自分の思考にどのように関わっているか、自分では確認できないから。
思考はナマモノであり、取扱注意であり、コワレモノであり、天地無用である。
一貫した考えがあっても1番上に鎮座するその考えと、1番下の揺るがない土台、そこに挟まれた思考は雲のように定形ではなく、常に変わり続けるものだ、と思っている。
形にしてみることが出来ればスッキリするがそんなことができる訳もなく、人間は常にその雲の部分の変化に悩まされ、それによって考えが変わり、そしてまた悩まされる。
「私はAが好きだ」「私はBは嫌いだ」
単純なこの好き嫌いにもそこに至るまでの様々な要因があり、またその要因を要因と至らしめるまでにも過程がある。
人間の思考は複雑だ。
今まで書いた文章も自分が考えたことなのにかなり複雑だなと辟易する。
確かに数十秒まではこう思っていたし、今も思っているのだが、こうして文章にしてみるとある種「他人が書いたのでは」と素っ頓狂なことを考えてしまう。
やはりアウトプットは大切だ。
基本的に自分のことを好きになれないのは変わりないが、ここ最近嫌いという感情は薄くなってきたように感じる。
面倒くさい考えをするのは悪い所でもいい所でもあるし、なにより自分を好いてくれる友人がいる。
自分を嫌うのはその友人たちの気持ちをも裏切ることになると漸く気付き、あんまり自分を嫌わないようにしようと努力し始めた。
なかなか本質を変えるのは難しいが、努力することはタダでできる。どうせ無形の雲だ。雲を「嫌い」という名のガチガチの鉄の塊にした考えも、最初は自分の無形から生まれたものだ。塊にしてしまえば脳死で「嫌い」になる。これは出来うる思考を放棄した悪い例だ。
だが雲から塊にできたのなら、きっと戻せるしフラットに考えることもできるようになるだろう。
肩こりも、腰痛も、治療をすれば治るのと同じ。頭の中はお金をかけずに自力で治療できるのがいい。
さて、こんなことを書いていたら寝落ちをしてしまって、6日間連続とはならなかった。
まぁしょうがない、昨日は休みだったしダラダラしてしまった。
自分のいいところ3つめ、面倒くさいことでも放棄せずに考えられるところ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?