対話ドリブンの下書き「学校が嫌いになりつつある、あなたへ」
最近noteの更新をしています。
というのも来春に対話ドリブン-自走する学校には対話から始める文化がある-という本を書いているからです。これはその下書きのような、自分と向き合う時間のような、そんな文章です。
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学校教育の問題については、誰しもが少なからず知っているでしょう。いいじめや学力の格差、現実と学校の間の隔たり、そして社会的な格差。これらはニュースでも頻繁に取り上げられ、我々の心を痛めています。
教員の役割も日に日に複雑になり、教えるべきことも増えてきました。プログラミング、探究学習、英語、道徳、教員の仕事は一体どこまで広がるんでしょうか。
私の友人である校長先生から、こんな話を聞きました。「教員の業務は、教えることだけにとどまらないんですよ。子供たちのしつけやマナー、登下校時の安全対策、怪しい人への対応、生徒とその家庭への訪問、そして休日のPTA活動、調査報告の作成や部活動の指導、果ては地域の見守りなど。これら全てが本当に教員の仕事なのでしょうか?」と。
ここで大切なのは、問題の真の原因に気づくことだと思うんです。すべて違った仕事なのですが、その中には共通の原因が隠れています。
それは「余白」の不足です。余白とは、時間だけではなく、心に余裕があることを指します。
教員たちは朝早くから夜遅くまで働き、一つのミスも許されない時間にも心にも余裕がない状況です。その結果、「ノープレー、ノーエラー」=「何もしなけりゃ失敗しない」そんな思考に追い詰められています。時間にも心にも余裕がないなら何もしない方がマシ、ということです。
「余白を持って働く」どうやらこの言葉を「楽して働く」という印象を持つ人もいるそうです。「余白を持って働く」のは「楽するため」ではありません。「余白を持って働く」のは子どものため、もっと言えば『子どもの「失敗する権利」を守るため』です。失敗する権利を使った先には、成長が待っています。
たくさんの些細な失敗を乗り越えて人間は成長していきます。教員がこれ以上余白を削られないようにするに手っ取り早いのは「答えを教え、失敗させない」ことです。失敗さえしなければ、保護者からのクレームは来ませんから。逆に些細でも「たくさんの失敗」をさせたら…
(ちなみに保護者からのクレームに関して。知人の話だと、ほぼ毎日3時間、1ヶ月対応された方がいました。どんな教員でも消極的になりますよね…)
些細な失敗が許されないそんな状況の中、子どもたちは本当に健やかに成長しているでしょうか。もし全員が問題なく育っているとしたら、それは過労と無難さを基盤にした虚偽の平和に過ぎません。
そして実際、全ての子どもがそのような状況下で健康に成長することは、残念ながらあり得ません。何度も言いますが、時間的にも精神的にも余白がなければ、些細な失敗を許せないからです。
だから、我々教員が一番に考えるべき問題は、「どう教えれば子どもたちに分かりやすいか」「どんなクラスにすれば問題行動を起こさないか」ではなく、「どうすれば教員がが余裕を持って学びの場をつくれるか」です。そうすれば些細な失敗を余裕を持って受け止め、成長につなげることができます。
その方が、きっと子どもたちも、そしてあなたも、もっと学校が好きになれるはずです。
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