遅咲きの桜と出会った話
4月がまもなく終わる頃、地元千葉県にある祖母の家に遊びに行った。
御年85歳。祖父が4年前に他界し今は一人暮らし。
30代の私よりもよく食べ、よく笑う祖母である。
祖母とはおよそ10年間、同居していた時期があった。
自然豊かというほどには住宅ばかりで、資源豊かというには最寄駅までバスか車でないと辿り着かない不便さ。いわゆる「中途半端な田舎」と言われる場所だと思う。
学生時代の私は、早く都会へ行きたいという思いを原動力に、あの頃を生き延びていた。ちょっと大袈裟だけれど、片道1時間半かけて都内の大学へ4年間通ったことは、懐かしい思い出の一つである。
中途半端でなにもないと思っていた場所。
退屈で居心地が悪いと思っていた場所。
不思議なことに、今ではその「なにもない」場所こそが、私の心のゆとりを取り戻してくれるように感じられるのだ。
気づいたことはもう一つ。
なにをもってして、この場所を「なにもない」と定義するのか、ということである。
これは最近、祖母を訪ねるたびに考えていることだ。
この日はかつての通学路を散歩していた。そこで見つけた「サトザクラ」。
私の家の周りにはない桜で、ソメイヨシノが散る頃に咲き始める桜なのだそうだ。
まあるい花びらがきゅっと枝先に集まり、一層丸みを帯びてボリューミー。なんだかぷりぷりしていて可愛い桜だった。
桜の季節に桜の観光名所へ足を運ぶことも、その季節ならではの楽しい娯楽だと思う。
しかし、案外身近なところでも季節の訪れは感じられたのだ。
お花見は4月下旬でも出来るし、桜は住宅街の中で地域と一緒に根付いている花だということを散歩一つで気づいた私は、ちょっぴりラッキーだったのかもしれない。
ゴールデンウィークとなると、つい「あそこに行きたい!」「こんなことをしてみたい!」と張り切って計画を立てるのだが、いざ時を迎えると、静かにゆっくり過ごしたくなる。
人から見るともったいないと思われるかもしれないが、それが私の心と体が求める時間なのだと受け止め、感情に従うようにしている。
また来年も同じ場所で、サトザクラが見れますように。
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