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ラップヒップホップ論で絶対書かない事

以下はこのnote記事をみて呟いたものです

ラップヒップホップ論で絶対書かない事の一つに「そもそも日本語は日本語じゃない」だ 明治期に作られた言語である事は有名だろうし現代社会でさえ日本語として作られた新語や言葉は基本的に「借物」だ そしてこの記事にあるのは「発展する」と実際に「出来るしやっている」は違う視点すぎる

幼児が何も教えられないまま育っても大半は未熟だが「教育」という何かの気づきを与え努力をすれば「発展する」のは明らか その先行事例がアルファベ文化の最先端である英語だっただけだしその「様式」が詩や文学で文化と伝統を形作り教育でラッパー以外でも韻を踏むという行為が発展系として出来る

だからその様な人たちは「それが得意だ」と言えるしそうでない人たちは「向いてない・得意でない」とも言えるがだからと言って「出来ない」とは違う 日本語の場合、現代ではギャグに大きく溝を開けられているし詩や文学では韻を踏むより高度な何かを「様式」として文化・伝統つまりは教育している

そして借物である「言葉」かつ「その構造」を使っている以上「ギャグ」になってしまうのは明白だがだからと言って「向いていない・得意でない」とは言い切れない とはいえ多くの日本語のラップ構文は「詩や文学より稚拙」である それは英語文化の伝統・文化と同じくらい比重がデカいから

期せずしてこの記事にある内容には「日本語は日本語ではない」を補完しているだけの様に思う 例題にもあるカタカナ語が入っていること そして何より「漢字」があること つまりラッパーや批評家が言いたい「向いてない・不得意」というのは ジャパニーズラップが日本語独自路線を放棄した証左



ここまではTwitterに書いた事だけど、よくよくこの方のアカウントを見てみると気になる点が散見された

やはりまずはボカロ界隈ということ
ここに無限の可能性があるのは不思議じゃない
にも関わらず、厳密な言葉の定義やライムする事の定義、果てはその音楽性を持つ一ジャンルとしてのボカロは確かに可能性が無限である

しかしなぜそれを適するあるいは得意であるという方向性で語っているかは目を見張るべきだ

要はボカロも仲間に入れてくれよっていう見え隠れする欲求とAI的言葉の巧さそして生身の人間が発する言葉を超えられるボカロはすごいぜっていう事までを内包しつつ、それでもやはり「顔は出せない」し「肉声」を使えないが「俺らすごいだろ」という何かエビデンスwを持って反証している様だがやはりジャパニーズヒップホップ・ジャパニーズラップの限界を見てしまう

挙句に参照Quotesで「日本語を喋ってください」という

それで韻関連のツイートもあるようでどうやら詳しいようだけど、それで音に重きを置いているPhoneticsやPhonemic要はラップ技法とかで言えばフローを重視するようなツイートが垣間見える



五線譜的フロー 書き言葉としての歌い方

ボカロについてはあまり詳しいわけではないということは前書きしておくとしてどうやって作られているかはすぐに分かる

ピアノロールという五線譜の延長にあるものに言葉を乗せていくのだけど、そこに何かがある

だからこそフローに拘るし「人間らしい」歌い方あるいはラップ・ライムの仕方を探求するのだろう
それとは違う方向でAI的あるいはボカロにしかできない様なフローやラップ・ライムも作られていっているはず

でもここで分かるのはあくまで「書き言葉」を前提にしているということ
書かないと(その五線譜に載せないと)発せられない音があり、その書く行為とどうやってその言葉が在るのかあるいはその音が「文字から発せられているか」を「見て」音楽的にしなければいけない
という点

だからこそ「向いている向いてない」という方向に走ってしまうしそれでも出来る俺つえー俺すげーを安易にやってしまうと

書き言葉は何か

漢字であり仮名である
だからこそ日本語ではない

暴論の様に聞こえるがまあいいだろう

じゃあラップする時ライムを考える時に「漢字を使用しない」フローは考えられるか?という即効性を発揮する

そういう音楽でもやっていれば?という反論は何度も聞いた
だからこそジャパニーズラップが盛り上がっていた第二バブル辺りの00年代までは期待が大きかったがどうやら放棄して今に至る

〇〇はとても持ってる大金
〇〇で名を馳せる邁進

みたいなライムがよく分かると思うがこの様に漢字二文字なりで踏んでいくだけならまだしも倒置法でしか大体の事がライムできない事の内在するクライシスは言語を学べば学ぶほど身を滅ぼす

だからこそフロー過多によるのは現代のバトルラップの興盛を見ても分かるしボカロはその一端でもあるからやるせないのだろう

ネットラップ・ライムはここに縛られないと生きていけないのだから、そのコミュニティあるいはジャンルで生きていくしかない作家やプレイヤーは哀しみが出発点だからこそ色々エビデンスwを足していくしかない


机上の空論?

向いている向いてないとかそんな机上の空論はやはりAIボイスを使う作家にとって大事なのだろう
ボカロがフリースタイルやり始めたら尊敬するが無理だろう

この話の結論としては、ボカロラップにおいての向いてる向いてないの話だろうなという哀しみ

それでジャパニーズラップが次の次元に行っている とか
世界でも活躍してる とか
言われるとモヤるのはやはり肉声じゃないからだろうし顔だ出ているでてないの原始さだろうしじゃあやっぱり生身の人間のあるいは現場wのスキルとしてのラップ・ライムとは違うって事だろう

機械はコレだけできる いや人間もコレだけできる
という切磋琢磨な話ならいいけどね なんか違う

軸が違った話でした





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