癌。
生活習慣病、脳梗塞、脳出血など年齢と共に気を付ける病気はたくさんあり過ぎます。
その中でも私は病気と連想すると 癌 と答えます。
私は4人家族の長男。
父親、母親、姉、弟の私。
姉とは8歳年の差がある。
8歳違うとお母さんです。色々な助言、母親には反抗しました。反抗期。
姉に言われるとまた違った意見で良く聞こえたりしていた。
父、母にうまく姉を使って私に伝えていたのでは?
なんて思う。私にとっては姉は第二の母だった。
父、母、姉と癌を患った。
確率でいくと3/4でかかっているので要注意。
順番では父、姉、母。
そのためがん保険にはしっかり入っている。
父は悪性リンパ腫で抗がん剤がうまく効いて寛解。
髪もそんなに抜けたり、副作用はなかった。
姉も悪性リンパ腫です。薬が合わず抗がん剤は8種類くらいの組み合わせを試したり、セカンドオピニオンで他県の病院を受診したりと闘病生活でした。
看護師をしていた姉は良くなる?と聞くと。
「わからない」
といわれました。本人は悪くなると悟っていたと今思う。
今思うと色々なことが繋がる。しんどいはずなのに色々と我慢をしていたと思う。
姉の余命先刻をされたときは涙が枯れるくらい泣いた。
「泣かない、あなたは大丈夫。」
と声をかけてくれてたことを今にも思い出せます。
姉のすごいところは誰から言われる前に実践していること。
家族に対する気遣いもすごいと思もいます。
誕生日なら家族全員で集まります。姉が築き上げてくれた家族間です。
家族で集まるとは当たり前ですが姉は看護師、私は介護、母も介護、父はサラリーマンで家族みんなが家にいる時間はいつも一瞬でした。
私たちにとっては家族で集まる事はとても貴重でした。
最終、放射線治療もしましたがダメだった。
若くして亡くなった。
母は胃がん。
姉が亡くなった年に、私たち夫婦は長男を授かる。
姉の生まれ変わり?誕生日は10日違い。
母とは姉が亡くなり色々衝突があった。家族間で溝ができた。
今思うとアホらしいことだ。姉という存在が家族全員にとっておおきかった。大事な歯車だった。
家に行く機会が何回か生まれました。長男が産まれ実家に行く機会ができた、色々することによって母と溝がなくなった。
子どものおかげ。
母もステージ3、4の間で抗がん剤は最初は良く効いていた。
頑張って食べていたがみるみるやせていく。
子どもを連れて行くと頑張って食べるし、外にでるとしっかり食べれた。
母は私行きたいところがある。
ディズニーランド、ハワイと若いころ父といた場所の大阪。
ディズニーランドは母、私、嫁、子ども。
で行きました。
抗がん剤の日を調整してコロナウイルスが広まる1年前。
楽しい、いい思い出。
ハワイには母、父、私、嫁、子ども、ばぁちゃん(母親の)
1週間行きました。それもコロナウイルスが広まる1か月前。
本当にいいタイミングで海外旅行に行けました。
抗がん剤はあまり効かなく食べれなくなり痩せていきました。
なるべく土曜日、日曜日は時間を作り、買い物に行ったり、ご飯食べにいったりできていた。
私が車の運転をしていると「しんどいやろ?家帰ろ。」と言っていたのを今でも思い出す。
しっかり言葉は話せていたので母親らしく気丈なふるまいだったと感じる。
最後まで母の強さを感じた。
母が亡くなる年に次男が産まれました。
子育てをして母、姉のしてくれていた事を思い出す。
父は健在で元気。
母、父が仕事でしんどくても子どもには色々してくれたことを実感。
動物園、遊園地、バスケの試合観戦。県外に進学した時など様々な事を今の様に覚えている。
親のありがたみは親にならないと実感できない。
子どもに親にしてもらっていると実感している。