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【読み返しエッセイ】満願成就

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(2021/05/28追記)この記事は全編無料で読めますが、もしよかったな、と思ったら私のビール代のサポートをいただけると大変うれしいです!
ですが、読んでいただけるだけでも死ぬほどうれしいので、この注意書きは読み終わるころには忘れていただいても構いません。
それでは、よろしくお願いします!
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今日は気分が良いので連投とかしちゃう。

今まで自分が書いた短編について話してみよう、というシリーズを(気が向く限り)やってみようと思う。
ご興味のある方、あまり期待せずに見守っていてください。

今まで、読書メーターでつながったJOJOさん界隈のメンバーで、「お話企画」というのに何度か参加してきた。初めて参加したのが2018年の秋だったんだから、なかなかの年月が過ぎたものだ。

その企画で自分が書いてきた作品の中で、印象的だったものを改めてピックアップして、心に浮かぶよしなしごとを書いてみようかと思う。

前置き長くて申し訳ない。
今回取り上げるのはこれ。

満願成就

リンクも貼ってあるので、よろしければご一読ください。1万字程度です。

これは、ちょうど元号が平成から令和に切り替わる時に書いた話。
この時の実施要項を見返してみると、「平成」「さがしもの」「炎」という3つのキーワードを用い、【恋愛要素のある】作品にせよ、とお題が来ている。

なんて難しいお題なんだ、と思いながら、頭を抱えたのが懐かしい。
自分で思い出す意味も込めて、当時これを執筆していた時のメモでも振り返ってみようか。

3/31 執筆初期

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ふむ。やはり「平成」というキーワードから入って、時代というのを意識したものを書こうとしているな。時代の変化に伴って、「私」が「私」を探す。その中で人と出会い、別れる。その別れの象徴として「炎」、そして何かを焼くようなシーンを入れたいと読み取れるな。

その下の部分は実際にはボツになった案だと思う。
「登場人物はすべて私」というのは、アニメ「SHIROBAKO」のテレビシリーズ第2期内で制作されたアニメ内アニメ「第3飛行少女隊」の原作者である野亀が、原作の主要5キャラに対して「彼女らは全て私の一部分を分け与えている」と話していたシーンから着想を得ている。
当時、「ほお、そうすれば自分の中にある葛藤を登場人物たちに仮託して物語を作れるな、すげえ」と妙に感動したんだったな。

4/2 わりと物語が固まってきている

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このころには、完成版にほど近い内容がイメージできている。

平成から令和に切り替わる深夜に、主人公はとある「けじめ」をつける(これが物語の本筋になっている)。これによって「平成」という主人公の過去が切り離され、「令和」に入って新しい人生を謳歌していける、という希望に満ちた話だ。

もちろん、お読みいただければわかるが、この話はそんなにキラキラとしたトーンでは書かれていない。テーマは青春っぽいが、やってることはまあなんだ。
メモにもある通り、主人公は小学校・中高・大学の3つのフェイズそれぞれで象徴的だったものを燃やし、破壊することで「けじめ」をつけているのでね。

「満願成就」で描きたかったこと

実は他にもメモはあるのだが、それは「この内容じゃつまんない気がする」と思って書き始めたもう一つの案で、実際ボツにしたし「満願成就」の方が数倍マシだったので、ここでは公開しない。

この時に描きたかったことは、実はいくつかある。物語は作者の手を離れた途端、読者との共有物となる、みたいな話はよくあるので、読み手の受け取り方は自由だ。なので、別に正解だとは思わずに読んでほしい。

・人の抱えるトラウマは、周囲がどんなに小さいことだと感じても、本人にとっては重大な出来事だったりするものだ
・一般的には理解しがたい行動でも、行為者にはそれなりの理がある

この2つくらいか。

1つ目。
・人の抱えるトラウマは、周囲がどんなに小さいことだと感じても、本人にとっては重大な出来事だったりするものだ

これは私がいつも思うこと。本文にもそのまま書いているので、ちょっと長いが引用する。

若いころのトラウマほど、消えにくいものはない。若ければ若いほど、小さなことで人は傷つき、そしてその記憶を抱えながら生きていく。いつか大人になって、時間が流れることで忘れてしまうものもたくさんあるだろう。大人になるにつれて様々なことを経験し、そして過去のトラウマを乗り越えることもあるだろう。しかし、そのどちらもできないタイプのトラウマもある。これを忘れたり、乗り越えたりするには、並大抵の努力では足りない。もっと大きなもの、決定的なものが必要だ。私は、その方法をずっとさがしていた。

小さい頃は、本当に小さな出来事で激しく喜怒哀楽を示していたと思う。その中で、怒と哀の記憶というのは、意外と根深く自分にしみこんでたりするよね。

友達からからかわれたり。

親から自分の楽しんでいたことを「そんなこと」呼ばわりされたり。

一つひとつは小さな出来事で、今やられてもなんともないことだが、当時は上手く受け流すことができずに、思いっきり傷を負ってしまう。私にもそんな経験があるが、大人になると、なぜか子供のそういうところに気付けなくなっていく。
自分はもう乗り越えた(ないし忘れた)から、もうわからなくなっているのだ。
初心者のころに何に困っていたか忘れて、後輩にうまく指導できない先輩、みたいなもんだ(なんだこの例え)。

当時はこれを言いたくて仕方なかったんだと思う。

2つ目。
・一般的には理解しがたい行動でも、行為者にはそれなりの理がある

他者理解に関する話だな。
本文にも書いた、「宝物」の話。これだけは実話だったりする。
私が加害者だ。

先生からは、「自分らしく、素直に」感想を言えと言われたので、自分は他人に忖度しないで思ったことをきちんと言おう、と思っての発言だった。特に悪意はない。自分の思う宝物像とはそぐわない内容だったので、「それって本当に宝物なの」と言ってしまった。

当然クラスメイトからは非難の集中砲火を浴びた。今でもクラスメイトの「侮辱!」の一言が忘れられない。

相当予想外だった(考えが足りなさすぎるけど笑)し、当時は全く納得できなかった。しかも、「侮辱!」と言われて、自分の何が侮辱にあたるのかも全く分からなかった。

先生の言う通りにしたら、悪者扱いされた。

大人になってから評価すれば、先生の意図も、どういうコメントが求められてたかも、自分の発言がいかに相手を傷つけるものかも当然のようにわかるし、これは子供心にもだいたいの子には理解できることだ。

だが、当時の私には難しかった。わからなかった。まぁ、それだけのことなのだが、今でも記憶が鮮明に残っているくらい、衝撃的な思い出だったりする。

これは、「だから私は悪くないのに、なんでみんなして怒るんだ!」というメッセージではない。
どう考えても、どっちが悪いかといえば、私が悪い。

だが、このエピソードで気づくのは、「その場の正解の行動ができていない、良くないことをしている」という人にも、意外と無邪気で純粋な、悪意の欠片もない気持ちや考えが潜んでいる場合がある、ということだ。

あの場でそれをみんなが理解する必要すら全くなかったことと思うが、こういうことがあるというのを分かっているのと分かっていないのとでは、その後の他者理解力に大きな開きが生じると思っている。

自分に見えている範囲が全てだと思い込んで、あいつは間違っていると叩くのか、
自分には見えていない真実があるかもしれない、と思って一応事情を聞こうと思えるのか。

私は、ちゃんと人の思いを掬える人でありたい。

満願成就では、主人公がその「純粋な過ち」を正すことなく突き進んでいくような話になっているので、ちょっと盗人にも三分の理というか、屁理屈っぽく映ってしまうかもしれないが、主人公の負っている傷そのものは、寄り添える類のものだろうと思う。

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