深夜の独り言 55
愛、考察。
素直が一番かわいいとわかっているのに素直になれないのはどうしてでしょうか。職場との飲み会なんて断って私といてほしいと思うのに、私が嫌がるから行きませんなんて言われるのは嫌、行ってきて、と怒ってしまう。ここ最近情緒が不安定で、ほんの少しのことで苦しくてたまらなくなってしまって、話を聞いてほしいのに会いたくないと言ってしまったりします。
どうしたら情緒は安定するのでしょう。どうしたら、私は愛されていると思えるのでしょう。
ほんとうはこんな暗いことが書きたいのではなくて、「愛する」ことについて書きたいのです。このアカウントを始めてから今まで、きっとずっとそうでした。「愛する」とは、「愛される」とは何かを書きたいんです。
彼と連絡する頻度が少ない、と嘆いた友だちは、それでも、指摘してたくさん連絡をくれるようになるのもちょっと、と言いました。「私のことをほんとうに好きなら」自分からたくさん連絡をくれるはずだ、と彼女はそう言いました。
「私のことをほんとうに好きなら」。この台詞は私もよく心のなかで思うものです。「私のことをほんとうに好きなら」きっとこうしてくれるだろう、という思い込みは案外厄介で、ほんとうに好きなのにそうしなかったというだけかもしれないのに勝手に傷つき勝手に嫌われていることが多々ありえます。それはひとえに、「愛する」ということが何か、その定義が食い違うからでしょう。
と、ここまで書いたあとで、昨日の朝素敵なnoteを読みました。
ちなみにほんとうに素敵なお話なので、ぜひ私の文章より先に読んでほしいです。恐れながらこちらにリンクを貼らせていただきます。私の理想のふたまわり上をいくような小説です。紙で読みたい。
朝起きてすぐこのお話を読んでから、「愛されたいように愛される」について、ずっと考えていました。他にも刺さる部分はたくさんあるのですが、ここがいちばん。「私のことをほんとうに好きなら」の正体を、見つけた気がしたのです。
私が彼に、「私のことをほんとうに好きならもっと優しい言葉で表現するよね」と嘆いたとき、彼は「ほんとうに好きだよ、送り迎えをしたりたくさん会いに行ったり、好きじゃないとしないよ」と答えました。飲み会の送り迎えなんてしてくれなくてもいい、ただ一言寝る前に「おやすみ」を送ってくれるだけでいいのに、と思ってしまった私に、この言葉はざっくり刺さりました。
「私のことをほんとうに好きなら」こうするだろう、というのは、「愛されたい」の理想形なのではないでしょうか。
このお話に書かれている、「意味がない」という強い言葉にもとても共感します。このお話はそこも良い。妥協をしない強い姿勢とラストに見えるほんの少しの可愛らしさ儚さとのコントラストが美しい。
しかし同時に、理想形を100%の形で叶えてくれる相手かどうかなんて、死ぬまでわからない、とも思うのです。相手が私のことを想いながら死ぬかどうかなんて、どうやったらわかるのだろうと。
私はいつかこんなつぶやきをしました。
私の「愛されたい」の理想形は、私が死んだあとにまで及ぶようです。死ぬまでわからないのに、どうやって相手を見つけたら良いのでしょう。
私は考えていました。できれば死ぬまでずっと相手を疑うような恋はしたくない。愛されたい形を、相手が叶えてくれたらいいのに。なら、リクエストすれば、いいのでは?
私は私のことをこんなふうに愛してくれる人と愛し合いたい、あなたのこともあなたの思うように愛するから、私の言うようにしてくれませんか。
つまり、解決策は「私のことをほんとうに好きなら」のあとに「こうするだろう」ではなく「こうしてほしい」を続ける、ということです。
経験上、「私のことをほんとうに好きなら」などという言葉を使うときは相手の想いを疑わざるを得ないほど自分が追い詰められているときなので、それを伝える、さらにしてもらったときに想いに確信を得られるという点で、個人的には「私のことをほんとうに好きなら」という言葉は効果的なのではと思っています。そしてこれも経験上、「私のことをほんとうに好きなら」こうするだろう、の問題はそのほとんどが勘違いで、相手はそこまで考えが及んでいなかっただけ、ということが多い。こうしてほしい、と伝えれば嫌がらずやってくれる可能性があります。多少嫌だったとしても、相手が追い詰められているときくらい「好き」を表現するために頑張ってほしいとも思います。
もしほんとうに私のことを愛しているなら、私の愛されたい気持ちを満たしてくれるよね。愛されたい気持ちって、どうしたら満たされるの?こうしてほしいの、そうしたら満たされるから。懇切丁寧に教えてあげれば、もしほんとうに愛されているのなら、やってもらえることでしょう。
金ときのお友だちはすごい人ばかりなので、素敵な言葉をくれるのですが、中でも最近心に留めている言葉があります。
愛されている自信がもてない、という場面が多々あります。それは相手の、不安にさせないための努力が足りていないせいもあるかもしれませんが、もしかしたら、自分が愛されたいと思う形で愛されていないだけで、ほんとうはちゃんと愛されているのに、満たされないと感じているだけなのかもしれません。
確かに愛を受け取ることは難しいことだと思います。しかし私のしてほしいことではなかった、というだけで、彼が彼なりに愛を表現しているのを無視するのは悲しい。とくに私はめんどうなので(以下参照)、私の思う通りに愛を表現できる人間なんていないでしょう。
ゆえに、愛の表現の仕方を教えてあげれば良いのではと、そういう考えです。
この間テレビで成田悠輔さんが、結婚について、こう言っていました。正確には、成田悠輔さんの知り合いのノーベル賞を受賞した学者さんだそうですが。
「ほんとうに好きなら、こうしてほしい」と言われたとき、相手を幸せにしようと思うのなら、物理的に不可能でない限り行うでしょう。つまりそういうことなのてす。
人が「愛されたい」と思うのは、よくあることでしょう。その中に「自分の思うような形で愛されたい」が含まれていても、それを責める気にはなりません。無意識にも、私もそう思っている部分があるから。普通だと思うから。
問題は、どうしたら「相手の思うように相手を愛する」ことができるか。ただ愛されるだけではもう満たされない私たちを満たすには、どうしたら自分が満たされるかを伝えて、やってもらうしかない。相手の満たされる方法を聞いて、やってみるしかない。そうやって、一緒に、愛し方、愛され方を模索するしかない。
どうして彼は、私がいちばん調子の悪い日に飲み会に誘うのか、それを私が「気分じゃないから」と断ったときどうして自分ひとりで行くというのか、それは、そのことがきっと彼の愛し方ではなかったからなのです。そっとしておいてあげようと思ったのかもしれません。あるいは何も考えていなかったのかもしれません。私のしてほしいことは、私が伝えなければ伝わらない。
やはり、素直になるしかないようです。ここまでぐるぐる考えて結論がこれならどうしようもありません。意地を張っている場合ではなさそうです。だって、「愛されたい」のは私だから。私が愛されるために、素直になるだけのことなのです。
「愛する」とは「相手のしてほしいことをしてあげたいと思う」ということだとすれば、「愛される」とは「何かをしてほしいと望む」ということなのかもしれません。そう考えると、私のためにこれをしてほしいという気持ちは、相手のことを好きだから生まれるのかもしれません。
望みましょう。声に出して、望みを伝えましょう。可愛らしいわがままを叶えてくれる人こそが、私を愛している人。私に愛される人。
愛される夜の、
深夜の独り言。