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置き去りチェリー
店内はゆったりとした音楽が流れ、深い茶色でまとめられた家具やところどころに置かれたアンティークなインテリアがシックな雰囲気を醸し出している。でも、女の子同士やカップルの若い客が多いからか、どこか浮ついたような感じもする。目の前に置かれたインスタ映えするようなプリンアラモードのさくらんぼを摘んで、口に放り込む。あ、種がある、なんて考えていると、ポケットに入れたスマホが震えた。
「あれ、佳穂から電話だ」
「佳穂ちゃん?」
「佳穂から電話なんて初めてなんだけど」
「そうなんだ。出たら?」
「ここで出てもいいかな」
「声抑えれば平気でしょ」
「そうかな。ごめん、出るね」
いったい、なんの用事だろう。十年以上の付き合いで、電話嫌いの親友は一度も自分から電話をかけてきたことがない。いつも文字を打つ方を好んでいた。どうして電話なんて。不思議に思いながら、緑のマークをタップする。
「もしもし、佳穂?」
〈あ〜〜〜ゆ〜〜〜こ〜〜〜〜〜〉
電話を繫いだ途端、聞こえてきたのは叫び声。叫び、というか、泣き声というか、大きな声を上げて、赤ちゃんみたいに泣き喚く佳穂の声だった。
「なにこれ、泣いてるんだけど」
「え?」
「おーい佳穂、どうしたの」
〈あ、あゆ、亜夕子、どうしよう、私〉
「とにかく落ち着いて。ほら深呼吸」
この子はいつもそうだ。器用で責任感も強くて、いろんな仕事を引き受けたりするくせに、少しでもキャパを超えちゃうと何にもできなくなる。十代のころから何も変わってない。しかも、もう無理ってなるまで、誰にも言わずに一人で溜め込むから、たちが悪い。今までの彼氏とも、そうやって別れてきたのを知ってる。相手の嫌なところ、直してほしいところ、ちゃんと伝えられなくて、うまく喧嘩ができないから、不満を溜め込んでしまって最後は一方的に佳穂が相手を無理になって、振る。
人と長く深く付き合うのが苦手なんだと思う。十年以上一緒にいて、佳穂と長く仲良くしている人を、男女問わず私以外に知らない。
「ほら、落ち着いた?」
〈うん…〉
「どうしたのよ、彼と別れたの?」
〈そうじゃないの…でも彼のこと〉
佳穂の今の彼氏とは、確か二年目だったかな。いつもそのくらいで別れてしまうけれど、今回は違うみたいだ。初めて佳穂が私に彼氏を紹介してくれたから、よく覚えている。顔はいまいちだったけれど、低めのハスキートーンの声はなんだか安心感があって、明るい佳穂をにこにこしながら見守っているような男の子だった。喧嘩でもしたんなら、二人にとってはすごくいいことだと思うけれど。
〈あのね、私…〉
「うん」
〈私、結婚するみたい〉
「は?」
思わず大きな声を上げてしまって、隣のカップルが驚いてこちらを見る。いつの間にか変わっていた音楽の、軽やかなピアノの音に耳を集中して、はやる心臓をおさめる。口の中で、ずっと入れっぱなしのさくらんぼの種をころんと転がす。結婚?佳穂が?
「ちょ、あゆ、声大きいよ」
「ごめん」
〈亜夕子?聞いてる?〉
「ああ、えっと、今の彼と?」
〈うん〉
「えー、え、いったい、どういう流れで?」
〈高校のときさ、私、27で結婚したいって言ってたの、覚えてる?〉
「ああ…うん」
覚えている。この子はなぜか高校生のときから子どもを産む年まで決めていたはずだ。彼氏とは続かないくせに。
〈それで、だから27のうちにって〉
「でも、まだ二年とかじゃなかった?同棲とかもしてないよね」
〈まあそりゃあ、亜夕子たち見てると二年で結婚って早いのかなって思ったりもしたけど、じゃああと三年付き合ってから結婚するなら、どうせならその三年を、二人の夫婦の形を探っていける時間にしたいからって、彼に、言われて。それに、亜夕子からしたら早いかもしれないけど、二年で結婚する人だって、世の中にはたくさんいるでしょう〉
「ちょっと待って、じゃあなんで泣いていたの」
〈なんか、昨日言われて起きたら、鞄に指輪入ってて、なんか、もうびっくりして、よくわかんなくて…〉
「は?」
プロポーズしてもらって、夢を叶えてもらって、幸せいっぱいのはずの佳穂が、どうして泣いているの。彼氏がかわいそうじゃない。ていうか、あんた今まで、そんなこと一言も言ってなかった。人付き合いがうまくない佳穂のために毎月、ちゃんと本音を言う会を作って、お互い良くないところ、好きなところ、楽しかったこと、辛かったこと、相談しあえるようにしてきたのに。先月佳穂は、彼が何を考えているかわからなくてって言ってたのに。仕事ばっかりだし、スマホ見てる時間も増えた気がするし、一回も怒ったことないしって。
歯の端っこで、種を軽く噛む。長く口の中に入れてあるからもう随分渋くなっている。最初はとっても甘かったのに。さくらんぼの種って、飲み込むとあんまり体に良くないって、聞いたことがある。
「…佳穂は、彼でいいの?嫌なところとか、これから絶対もっと見えてくるよ。また耐えられなくなっても、結婚って簡単には終わらせられないんだよ」
私のほうが嫌なやつだ。佳穂が幸せなら、それでいいはずなのに。
〈…亜夕子と同じこと、言ってくれたの。お互い話し合って直していこう、寄り添っていこうって。それ聞いて、ああこの人なんだなって、思ったの〉
「そう、なのね」
目の前のプリンアラモードが、霞んでいく。その奥で、彼はもうほとんど食べ終わって、鞄の中を漁っていた。
「おめでとう、佳穂」
〈ありがとう…自信ないし、ちょっと怖いけど、頑張る〉
親友の声は、さっきまで泣きじゃくっていたとは思えないくらい、明るくなっていた。
〈急に電話かけてごめんね。亜夕子と話したら、落ち着いた〉
「うん。もう切るね、またね」
〈はーい〉
スマホをテーブルに置くと、彼は鞄から取り出したティッシュを差し出して、ほら、と笑った。
「途中、すごいしかめっ面してたぞ。いい加減、種出しなよ。苦いだろ」
「ありがと」
「佳穂ちゃん、なんだって?」
手で隠して、ティッシュにぺっと種を吐く。泣きたいのはこっちだよ。大粒で光っていたさくらんぼは、しわしわの小さな種になって、私まで醜いところが顕になった気分だ。
「結婚、するんだって」
「…そっか」
私たちは、と声に出そうとして、やめる。彼は、結婚の話題は嫌いだ。仕事が一番、恋愛はもっとずっと下。結局、恋愛をするのが面倒くさいから、いつまでも私と付き合っているんだろう。私だって、他を見ようとしていないから、似たもの同士だけれど。
最初の頃は楽しかった。最近じゃもう、こういう雰囲気の喫茶店に付き合ってくれるのも、珍しくなってきている。でも、なんだかんだ優しいから、ずっと好きだ。私たちは、佳穂よりずっとうまくやっている。私は、ちゃんとこの人を一生好きでいる自信がある。それなのに。
「早く食べなよ、このプリン美味しかったよ」
佳穂と出会った頃に付き合って十年と少し、きっと最初で最後の私の恋人はそう言って呑気に笑った。
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