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カルピス
からん、と大きな氷が涼し気な音を立てる。二つ並べた背の低く幅広なグラス。カルピスの原液を注いで、それからミネラルウォーターを静かに流し入れる。「カルピスって牛乳入れても美味いよ」と、芳人がそれを覗きながら言う。
出来上がったカルピスをサイドテーブルに運んで、私はもう一度ベッドに寝転がった。
「えー、また本読むのー?」
芳人がベッドに腰掛けて口を尖らせる。無視して文庫本を手に取る。うつ伏せで肘を立てて栞の挟まったページを開く。
「早く読み終わってね」
芳人は言いながら私の背中にぽんぽんと触れる。そして自分はスマホに目を落とす。
読み終わるとかじゃない。これで三周目だもの。それでなくとももうほとんど覚えてしまっているこの本を、芳人の部屋に来てから一通りめくった回数だ。窪美澄のよるのふくらみ。そんなに厚くないからすぐに読み終わる。ハッピーエンドにたどり着けなかった男のくたくたとしたラストのシーンが好き。それでいうとカツセマサヒコの明け方の若者たちも好きだ。
現実ってこんな感じかなあ、と思う。誰かを呆れるほど好きになって、相手も自分のことをそれくらい好きだなんて、ちょっと私には信じられない。でも逆に、適わなくて泣けるくらい、余裕のない恋だってなかなかない。片想いの話は好きだ。恋愛は二人でするものだけど、お話の中なら一人で身を焦がれるような気持ちを味わえる。実際にそんな気持ちになるなんて、想像もつかないけれど。
背中に芳人の視線を感じる。スマホをいじるのにも飽きて、きっとすぐ、私の横に寝転んでくるだろう。芳人はくっつくのが好きだ。でも、私はあんまり好きじゃない。
左手を伸ばして、グラスを手に掴む。右手で一枚、ページを捲る。天気のいい昼に日陰でお昼ごはんを食べるような、むず痒い気持ちになるお話だと思う。カルピスを口に含んで飲み干す。たっぷりと濃い液体が通り過ぎて、舌にざらりと後味が残る。
グラスを戻そうとすると、芳人が私の左手を掴んだ。うまく置けなかったグラスが倒れて、氷と濁った液体がサイドテーブルの上につーっと伸びる。芳人は薬指をそっと撫でる。そこに指輪はない。私が、拒んだから。
「俺のこと嫌い?」
私に覆いかぶさって、耳元で問う。背中にかかる圧で、胸がずきずきと痛い。
「好きだよ」
絞り出すように答える。本心だった。甘い液体が視界の隅でぽたぽたと垂れていく。
捲った先は、主人公の女の子が牛乳を飲むシーンだった。彼氏の弟とした直後。清々しい気持ちでごくごくと飲み込んで、それから、後悔が襲ってくる。彼氏との価値観の違いに傷ついていく様子がすごくリアルに描かれていて、なんだかぞっとする。
「そっか。良かった」
芳人が言う。全然納得していない声だった。それから、後ろからぎゅうっと抱きしめる。痛いよ、と声が出たかわからない。腕を回されたお腹と襟ぐりに、痛いほどの圧。
芳人のカルピスは減っていなかった。私のグラスだけが倒れて、中身は全部、床に水溜まりを作っている。ぽとり、ぽとりと、まだ時折机から垂れる。たぶん、と思う。たぶん、まだ大丈夫。でも、もう少ししたらわからない。
形を作りたくない。家族とか、夫婦とか、そういう形。そんなものはないほうがいい。たとえば同じ濃さのカルピスを一緒に飲む、ただそれだけでいいのに。
私の背中で小さく震えている男の子に、ごめんね、と思う。それから目を瞑って、全身の力を抜いた。
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