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オレンジ
とろっとしたオレンジ色の光の中で、真っ赤な口紅のついたストローを掻き回しながら頬杖をついている。汗をかいたコカ・コーラのグラスに入れすぎた氷がぶつかって、カラカラと軽快に鳴る。だいぶ色の落ちた唇を尖らせながら、目を伏せたままの彼女が言う。
「ここにファミレスあって良かったよね」
通っている塾から歩いて五分もかからず、しかも駅前から少し逸れたところにあって空いているので、僕たちは毎日のようにここに通っている。お昼を食べて、勉強して、デザートを食べてから塾に行く。もう、彼女が次に何を飲むかまでわかってしまって、ドリンクバーを取ってくるのは僕の役目だ。
「オレンジジュースとってこようか?それとも、もうそろそろデザート食べる?」
朝の九時に集まって、彼女はまず野菜ジュースを一気に飲む。それから夏なのに温かい抹茶オレを飲んで、お昼には烏龍茶、そのあとカルピスソーダ。今日みたいに二人とも遅い時間の授業しかない日は、最後にオレンジジュースも飲む。
「ん、飲む」
そう言いつつ、メニューを取り出してデザートを選び始める。どっちもお望みのようだ。僕はそっと席を立つ。
彼女は僕が戻ってもまだ悩んでいた。オレンジジュースと自分のアイスコーヒーを小さな水溜まりの上に置いて、悩む顔を眺める。
西陽が眩しいほど当たるこの席で、オレンジ色に染まった顔で同じ色のジュースを飲む彼女はとても綺麗だ。
「かき氷にした」
注文して、メニューと勉強道具を片付ける。
「先週もそれ食って、オレンジジュースと合わなくてまずいって言ってたじゃん。宇治金時」
「あ」
大袈裟な身振りで喚く。
「それ早く言ってよ〜」
いつも通りの天然ぶりに、口角があがってしまう。上目遣いで睨んでくるのもまた可愛い。にやにやしていると、宇治金時が運ばれてくる。
「そういえば模試、どうだった?」
この夏二度目の宇治金時を何の感動もなくスプーンでつつきながら彼女は言った。彼女が勢いよく溢した緑色を拭き取っていた手が思わず止まってしまう。
「判定、いけそう?」
高校三年生の夏。受験生の夏。僕らはそれぞれに、前へ進まなくちゃいけない。
「…ちょっと、やばい」
絞り出した声は、彼女のかき氷を描き混ぜるざくざくという音に負けてしまったかもしれない。
「ふうん」
小豆の塊を口に含んだ満足そうな顔で、自分が聞いたくせに興味もなさそうに頷く。彼女は説教くさいことを言わない。自分は僕よりもっと頭のいい大学を志望しているけれど、僕のことを馬鹿にしたりもしない。いつもちょっとドライに、でもしっかり話を聞いてくれる。ありのままを受け入れてくれる気がして嬉しくて、つい甘えてしまう。
「受からないかも、な」
「いけるって」
「なんでよ」
「毎日一緒にいる私が言うんだから大丈夫」
根拠のない適当な、優しい言葉をくれてから、僕にオレンジジュースを差し出してくる。
「まずいから、飲んで」
赤い跡のついたストローがくたりとグラスを滑った。
その日の授業で、彼女は先生と個別面談に呼ばれていた。帰り道、何を言われたかと尋ねると、にかっと笑って言う。
「模試のこと」
夜の渋谷を手を繋いで歩く。彼女の手はいつも冷たい。車道が広くて、車がびゅんびゅん通る。煩いから、寄り道がてら一本道を逸れる。
「ねえ」
「なに?」
彼女が足を止めて、僕を見上げる。暗がりでもはっきり思い出せるくらい、さっきの彼女の纏うオレンジの風景が目に焼き付いている。
「私さ、夢があるんだよね」
「うん」
知っていた。彼女が小さい頃から憧れていた夢に向かって、今まで一生懸命勉強してきたこと。志望している大学も、そのために選んだということ。すごく厳しい道だけれど、覚悟をもって臨んでいること。
「だから、絶対受かりたいの」
嫌な予感がした。彼女はあまり自分のことを話さない。相談をしない。全部自分の中で決まっているからだ。進路のことも、それ以外も。
「それでね」
「待って」
「黙って」
強く繋いでいたはずなのに、彼女の冷たい手のひらがするすると抜けていく。情けない僕の左手は、生温かい夏の夜の空を漂う。
「別れたいの」
彼女は笑った、と思う。見たことのない顔だった。いつ塗り直したのか、暗がりでも鮮やかな赤い口紅が動いた。
「なんで…」
「成績が落ちているから」
「だから一緒に勉強してるじゃん」
「一人のほうが集中できるの」
「でも、いいよ、一緒に勉強しようって」
「デートは無理って言ったのは私だから、折衷案くらい受け入れようと思ったの。努力したのよ、これでも」
「じゃあ」
「結果、私の夏は最悪な結果で終わったの。これ以上時間を無駄にできない。別れてください」
もう、無理なのだとわかった。きっぱりとした言い方は、彼女の決定事項を告げる声で、それが変わることはない。
「そっか」
溜め息とともに吐き出した。
「ごめん、勉強の邪魔して」
口いっぱいにかき氷を含んだときみたいに満足げに頷いて、彼女は僕の横に並んだ。
「帰ろ」
僕は泣きたかった。自分は甘えていたのに、彼女は一人で全部抱え込んで、決めて、その事実が悲しかった。情けなかった。手を繋がずに並んで歩いた。距離感が掴めなくて、ときどき触れたりした。彼女の手は相変わらず冷たかった。だるい夏の空気に染まらない、心地良い冷たさだった。最後くらい我慢しなくちゃと涙を飲み込んで、無言で歩いた。
いつもの駅の改札で、また明日を言わなかった。代わりに、ありがとうを言った。明るいところで見たら、彼女の目は赤くなっているように見えた。いつ泣いたのかわからない僕にはやはり、彼女と一緒にいる資格がないのだろう。
思い出すのは西陽のオレンジに染まった気だるそうな顔と、冷たい手の感触。それと、少し面倒くさそうに言う「大丈夫」の言葉だった。
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