抱擁
ぎゅうしなさい、とむくれる。
湊はふふっと笑った。楽しそうに。
なんでぎゅうしてくれないの。あたしはだんだん涙目になる。なんで、なんで。いじわる。はやく、はやくぎゅうしなさい。
湊が腕を広げる。本当は湊から強い力で抱きしめてほしいのに、我慢できずに飛び込む。少し背伸びをして首にすがりつく。涙がこぼれ落ちる。好きだから。
湊は大きく息を吸い込んだ。それから、耳元で言う。
「いいにおい」
湊の声。湊の温度。湊のにおい。湊に包まれて、あたしは最近あった嫌なことを全部、ゆっくりと、潰していく。
例えば愛菜と喧嘩したこと。苦手なタイプだったからできるだけ避けていたのに、サークル全体での飲み会でなぜか隣の席に来て、それで嫌味を言ってきたのだ。酔いもあってか相手にしてしまった。お互い喚き散らして、周りに迷惑をかけてしまった。
例えば、姉が出ていったこと。大好きなお姉ちゃんはもう社会人で、一抜けぴっぴでこの間家を出ていってしまった。母と二人、家に残された私は、家で安らぎがなくて困っている。
それから、今日、お気に入りの香水が割れたこと。夜に湊と会うからと持ってきたのに、授業中体勢を崩した男の子が鞄を踏みつけて、鞄の中で香水瓶が割れてしまった。でも鞄を床に置いていたのも悪いから曖昧に笑って誤魔化した。結構ショックだった。
それから。
高橋先輩に襲われたこと。最初から変な人だと思っていたけど、怖いからうまく断れなくて、探しものを手伝っていたら部室で二人になってしまった。乱暴な手とギラギラした目。重たくのしかかる体と恐怖。抵抗しても動かなかった。優しい湊の顔がちらりと浮かんだ。あたしは大きな声で叫んだ。里香が来てくれなかったら最後までされていたと思う。はだけた服の間で胸がべとべとになったあたしと全裸の高橋先輩を見て、里香は涙を流した。あたしは泣かなかった。高橋先輩はサークルを辞めた。あたしも、里香と一緒に辞めた。
全部、潰していく。頭の中を湊に変えていく。久しぶりに会えた。やっと会えた。あたしね。あたし、耐えてきたよ。湊に会うまで、泣かなかったよ。
涙が止まらない。だんだんと嗚咽が漏れる。湊が好きでたまらなくて、湊だけと生きていきたかった。世界中に湊とふたりだけだったらいい。何も考えずにただこうして触れ合っていたい。
「ん、どした」
湊が優しく背中をさすってくれる。頭を撫でてくれる。愛おしいその手つきに、頭の中が侵されていく。
「いいにおいだ」
湊がもう一度言った。お気に入りの香水はつけられなかったけれど、ただあたしの、そのままのにおいを吸い込んで言った。あたしも湊のそのままのにおいを、大きく吸い込んだ。
熱い涙が、湊の服を濡らす。