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清潔

 清潔な歌を聴く。よくアイロンのかかった白いシーツと軽いバターの香りが似合うような清潔な音色。純粋な愛の歌。

 静かな朝である。僕はすっと息を吸った。ホテルのカーテンを開け放ってベッドに収まっていると、なんとも心地がいい。自宅よりずっと大きく息が吸える。生活感がないから。清潔感があるから。

 割れたスマホは電源を落として、今どきあまり見かけなくなった、角の欠けてしまった分厚い音楽プレイヤーを握りしめた。

「一晩よ」

 一咲かずさは囁いた。まるですぐ隣に寝ているかのようだ。この白いシーツの上で一咲が寝るところを想像する。

「一晩って、たった数時間だと思っているかもしれないけれど、実際そうなんだけれど、でも昼間の数時間とは意味が全然違うのよ」

 そうかもしれないねと僕は思った。一咲は白いから、どこまでが肌かわからなくなってしまうかもしれない。そして僕は一咲を、一咲の白い肌を、飽きるほど見つめるだろう。触れることなく、吸い込まれるように目を凝らして見つめるだろう。そして、でも、飽きることはないのだろう。数時間でも、一晩でも、幾晩でも、ずっと見つめていられる。昼も夜もずっと。

 清潔な歌が響いている。一咲は真っ白な女の子だった。この歌がちょうど似合うような。一咲は美しかった。

 僕は立ち上がる。アイロンのかかったシャツのボタンを上から全部、きっちりと留めて、ベルトの金具を穴に正確に通した。つるりとした肌を確かめてから、もう一度、すっと息を吸う。なんとも心地がいい。カフェでモーニングを頼もう。新聞を読みながら、コーヒーを飲もう。ゆで卵とトーストとサラダをサクッと食べて、散歩でもしよう。そうしたら、新しいスマホを買いに行こう。

「あたし、寂しかったのよ」

 一咲の声が頭に直接響く。僕はそれを聞いても何も答えられなかった。ただ、醜いと思った。他の男と一晩を過ごし、それを僕のせいにしようとする彼女は、誰がなんと言おうと僕には汚らわしくて、だから僕はぽつりと、さようならと思ったのだった。さようなら、僕の美しい一咲。さようなら、一咲の清潔な肌。

 音楽を止めた。すると、一咲の声も消えた。鏡の前で、僕は息を吐く。汚いものは置いていく。念入りに磨かれた鏡の外側にポイだ。美しいものだけを掬い取って、僕は生きる。

 僕と、僕の清潔な世界。

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