カラオケをいい思い出にするために
カラオケのゴールとはどこにあるのだろう。
大きな音に包まれて心のままに歌い、あるいは耳を傾けて非日常を味わう。それ以上でもそれ以下でもない、という考え方もあるだろう。
けれども参加者がみんな「いい思い出」を持ち帰ってこそ、そのカラオケは成功したと言えるのではないだろうか。私はそう思ってしまう。
そもそも歌が得意でも、不得意でも、恥ずかしいのがカラオケだ。かつて音楽の授業でクラスメイトを前に独唱したとき、まったく緊張しなかったという人間がいるだろうか。
そんなジャイアンじみた人間などそうそういないと思う。人前で歌うという行為はやっぱり恥ずかしさを伴うものなのだ。
では、みんなの「恥ずかしさ」を「いい思い出」にするために、私たちができることとは何であろうか。
一つめはなんといっても「みんなで歌えば怖くない」であろう。何人かで一緒に歌うことで恥じらいが薄らぎ、連帯感が生まれる。前向きな気分にすらなれる。この効果の高さの証左として校歌や社歌、国歌の存在が挙げられる。
二つめは「みんな知ってるポピュラーな曲を選ぶ」ということだ。誰も知らない歌手の曲を歌って、興味を引くのは難しい。もはやプロ歌手の領域である。やはり、その場にいる誰もが知っている歌手の曲が望ましい。往年の名曲であれば各々の懐かしい記憶を喚起する可能性もあり、退屈を感じさせずらいはずだ。
三つめは「巧拙を気にしない」である。上手い歌が聴きたいのであれば有名歌手のコンサートへ行けば良いのだ。あくまでコミュニケーションの手段としてカラオケを利用していることを忘れてはいけない。
自分の番が回ってくるからと言ってデンモクばっかり見ているのもいただけない。コミュニケーションなのだから、自分のことばっかり考えていては元も子もないのである。
また、歌い手は聞き手との「温度差」に気を配る必要がある。熱く歌いすぎてしまったり、上手く歌いすぎてしまうと、聞き手は「温度差」を感じてしまうことになる。なるべく技巧を凝らさず淡々と歌うことが望ましい。
この点についてもジャイアンが身をもって教えてくれている。マイクはみんなの共有財産。つかんで離さず熱唱などもってのほかなのだ。
以上を念頭において周りに目を配り、かつ自身も楽しまなければならない。言うは易し、行うは難しである。というか、無理だ。
いっそ己の快楽だけを考えて、周りを巻き込めたなら、どれだけ楽だろうかと思ってしまう。
私にとって、カラオケとは修行の場なのである。
さて、トップの写真は「飼い猫」である。
猫は自分のことだけ考えていても
「良い」とされている稀有な生き物。
うらやましくもある。
きょうもお読みいただきまして、
ありがとうございます。
それでは、また明日。