部屋と掃除と修行とわたし
ひとりきりの自宅で過ごす一日は、いつも私にとって“修行”となる。
朝、家族を玄関で見送ると、全部屋の窓をあけ、はたきがけにかかる。照明器具、本棚、テレビ、コンセント周り。高い所から低い所へと順にほこりを落としていく。下駄箱から靴を出して、棚に散った砂を掻き出す。ここで一旦、はたきを仕舞い、台所の洗い物にかかる。食器はもちろん、ガスコンロの五徳も洗い、蛇口とシンクを磨いておく。
空気中のほこりが落ちついたことを確認し、くまなく掃除機をかける。部屋の四隅は重点的に、ドアー、ソファー、カーペットの裏も抜かりなく。トイレでは、ペーパーロールのカバー、便座のふたの蝶番は特に細かいちりが溜まりやすい。手洗い場の鏡を磨き、立った位置と便座に座った位置から磨きあがりを確認する。バスルームでは排水溝の髪の毛の除去と、ポンプ類の底を拭くのを忘れずに。清掃に使った布巾類をまとめて洗濯機を回す。各部屋を回り、指差し点検しながら窓を閉める。
掃除はさぼりたい心との戦いである。いくらでも手を抜くことができてしまう。だからこそ、見て見ぬふりをせずに細部まで掃除をやり通したときに得られる清々しさは、何物にも代え難い。真っ当な人間になれたように感じられるものだ。
しかし、こんなものは修行でもなんでもない。ただの掃除だ。修行は、家族の帰宅後に始まる。
『掃除をしたことを、口にしてはならない』のだ。
どこをどう掃除したのか事細かに話したい。苦労を知ってほしい。気づいてもらいたい。そういった気持ちを飲み込んで、言わない。口に出してしまったら、せっかくの清々しい空気が、恩着せがましい響きに染まってしまうのだ。
掃除のありがたみは、ふと気づいたときにこそ最大化される。掃除をした本人から清掃の解説を受けたところで、住人が感動するわけがない。だから、気づかれなくても構わないという強い気持ちをもって、何食わぬ顔で暮らす。
家族が誰も反応しないと、当然、弱気になる。そもそも最大化した感謝を享受したいという考えは姑息なのではないか、という反論すら頭をよぎる。けれども、心の葛藤を抱えながら、沈黙を守る。
これを私は修行だと思っている。
きょうもお読みいただきまして、
ありがとうございます。
それでは、また明日。