空を埋める衣類たち——葬送のフリーレン 第10話
アニメ「葬送のフリーレン」第10話は、画コンテ、演出が刈谷暢秀さん。
刈谷さんは「ぼっち・ざ・ろっく」第4話(下北沢でアー写を撮る回)でキャリア初の画コンテ、演出を担当。形象崩壊して電子音を発するぼっちやリョウさんの「個性を捨てたら死んでるのと一緒だよ」が印象的。その後も、体育祭の立体ゾートロープ制作など、普通じゃない表現をあれこれ担当していた。
斎藤圭一郎監督は重要な第10話を刈谷さんに託した。原画にけろりらさんやまりんぐ・そんぐさんたちがいるのもアツい。刈谷さん自身も原画を描いている。
第9話が凄まじいアクションを核とする回で、第10話はそれを受けての「断頭台のアウラ」篇のクライマックス。でも、そこで描かれるのは時間にして数十秒から数分のあっという間の結着。「葬送のフリーレン」らしい展開だが、「動く」アニメで第9話であれだけ盛りあげてしまったものを受けるのはとても難しく思えた。
で、実際のところの出来栄えは、そんな杞憂を吹っ飛ばすすばらしいもので、ラストシーンからエンディングに切り替わる瞬間のゾクッとする感覚は第9話を凌ぐといってもいいものだった。アクションではなく芝居でここまで魅せるのはすごい。
(以下、ネタバレです)
noteに書きとめておく気になったのは、原作にはない演出にシビれたから。他にも感心した点を挙げたらキリがないので、以下、その一点だけ書く。脚本で足されていたのかもしれないが、おそらくは画コンテで足された要素なのではないかと想像する。
それは、フリーレンとフランメが街を歩くシーンの干された衣類(洗濯物)。ヴェネツィアの旧市街のように街路に縄を張り、空を埋めつくさんばかりに衣類が干されている。原作でもほぼ同じ構図の場面があり、フランメが同じ台詞を喋っているが、洗濯物はない。アニメのこのシーンはカメラが上方にパンして最後はフランメがフレーム外に消えてほんの一瞬、建物と干された衣類と空だけになって終わる。
同じシークエンスのこのシーンの少し前に、フランメとフリーレンは次のようなやりとりをする。
魔族は強さで、人は地位や財産で序列をつける。地位や財産を示威するために、人は着飾る。空を遮るように干されたたくさんの衣類は「人は着飾る」を——「魔族と人は違う」ことを象徴している。
これが、第10話の最終シークエンスに、ズシリと効いてくる。
原作どおり師匠フランメの「魔族が言葉で人を欺くように、お前は魔力で魔族を欺くんだ。」という言葉を一瞬回想して、フリーレンはアウラに完勝する。
アニメではこのシーンが、すばらしくシンボリックなビジュアルに改変されている。街路に干された夥しい数の衣類の影が、街角の壁を埋めつくす。衣類が風に揺れる様が、止め画ではなく(わざわざ)作画されている。フランメとフリーレンは、干された衣類の影の群に完全に呑みこまれている。それは、彼女たちが(衣服で着飾る)人の側にいることを象徴している。そしてフランメは、人とは異なる魔族を欺いて、人は勝つのだとフリーレンに語る。
ビジュアルとしてもとても印象的で美しく、その前後の夜闇の中での対峙のシーンとのコントラストもあり、ゾクゾクした。すばらしい。
アニメ「葬送のフリーレン」は、原作の構成をかなり忠実に踏襲しながら、アニメーションならではの表現を足している。第9話の超絶アクションなどその最たるものだ。
第10話は、フリーレンとアウラの闘いに結着がつくエピソードだが、断頭台のアウラが何者であるかは第9話までで既に語られており、第10話で1話を費やして語られるのは、フリーレンはなぜアウラを圧倒して勝つのかという背景だ。その理由を煎じ詰めると「(魔族ではない)人は、(人ではない)魔族を魔力で欺いて勝つ」ということに集約される。
空を埋める衣類たちのメタファーは、ちょっとしたスパイスのようなものかもしれないが、最小限のチョイ足し(2シーン、4カットの原作改変)で作品そのもの深みをぐんと増す、実に味わい深いプロフェッショナルの技だと感じた。感服です。
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