絵を描くとは
先週末は「美術入門」のスクリーニングで吉祥寺に。
科目概要
2日間(日曜日は午前中までなので厳密には1日半)の講義と講義後のレポート提出で1単位の科目。絵画系コースの先生方による油絵、日本画、版画についてのリレー形式の講義でした。
講義で印象に残ったこと
いろいろあったなかでも「西洋画と日本画の違い」についての講義がよかったです。最近は西洋画(油彩)、日本画、版画の境界線は曖昧になっている(例えば、日本画でもアクリル絵具を使うとか)とのことでしたが、これまで西洋画と日本画の違いを明確には知らなかったので(美大生やってながらお恥ずかしい限り…)、こういう教養的な講義を受けるのも大事ですね。
もちろん画材や技法が異なるのは当たり前なのですが、もっとも大きな違いは「陰影」の有無。言われてみれば、日本画で平面的な感じを受けるのはたしかに「影」がないからだ。油彩技法をはじめて使ったとされるヤン・ファン・エイク(下は代表作の「アルノルフィーニ夫妻の肖像」)は、明暗のグラデーションを描くのに最良な方法を模索する中で、それまでのテンペラ画から油彩になったのだとか。
では、なぜ陰影の有無の違いが生まれたのか?
仮説も含めての先生方の解説では、
緯度経度の違いによる日照時間の違いから、 西洋:(暗いので)色はよくわからない…色彩は装飾的、明暗(存在)こそ本質 日本:(時間とともに)陰影は移ろう…色彩(固有色)こそ本質となった。
居住空間の構造の違いから、 西洋:額の絵=石の壁から外につながる「ゲート」。向こうの奥行きが必要。 日本:襖の絵=庭園と人間との間の空間を作る。豪華絢爛な演出、デザイン的。となった。
とのこと。これらが「西洋=現実主義的、日本=空想・理想主義的」という違いにもつながっているように見えます。
絵を描く=「脳との戦い」
昨年度は必修の基礎科目とデザイン系の科目を主に受講していたので、2日間ずーっと座りっぱなしの座学とはいえアート系の講義は新鮮でした。
講義の中である先生が、
この世界は歪んだ非ユークリッド空間見えたとおりを平面の絵には描けないそれぞれが「見た(大事だと思う)」ものを描けばよい
とおっしゃっていて、正直難しくてよく分からなかったのですが…
要は、人間の「脳」が捉える世界と、人間の「視覚」が捉える世界と、現実の理論的に「存在する」世界との間にはズレ(歪み)があり、どれも「正しい」ので、それぞれ(作者)が「見た」ものを描けばよいのだ、ということをおっしゃりたいのだと理解しました。
例えば、感覚機能としての「視覚」が捉えた「水平線」は「まっすぐ」なのに、「脳」は「地球は丸い」という知識をもとに「水平線」を「ゆるやかにカーブしている」と捉えたりする。「視覚」も目の構造上、現実の理論的な世界を「遠近的」に捉えたりする。写真でさえも本来遠くて小さく写るはずのものでもレンズや機能によって大きく写すように調整したりする。つまり、どうやったって「正しい」世界は一つではないし、どれが「正しい」とも言えないのがこの世界なのだ、と。
だとすると、「絵を描く」とは何なんだろうか。その行為の本質とは何なんだろうか。
思ったのは、これはある意味「脳との戦い」なんだと。その戦いに挑み続ける人間の飽くなき探究心そのものなんだと。
人生を通じて環境的・文化的・経験的に洗脳されているいわば「社会脳」が認識する世界と、視覚として「見える」世界との間の戦い。その「見える」世界をどのようにして人々の「社会脳」に伝えるかという作者の意思と挑戦こそが、西洋・日本の違いを問わず共通する「絵を描くこと」の本質なのではないか。
最後のレポート提出。試験時間は90分で、予告通りの「講義を受けて感じたこと、考えたことをまとめよ」的な出題。電子機器(電子辞書以外)は持ち込み不可でしたがノートやメモはOKとのことで、早起きしてまとめておいた骨子をもとに、講義を受けてインスパイアされた「脳との戦い」のことを裏面までビッシリと書きまくってきちゃいました。