齟齬を肯定する──官僚をやりながら考えていたこと
もう2カ月ほど経ってしまったが,新卒で3年間くらいお世話になった中央省庁を辞めることになった.この3年間は非常に学びが多く,かかわった方々には感謝してもしきれない思いだ.ここでは,自分のキャリアについて語っても意味がないので,実際に働きながら考えていたことをメモしておこうと思う.
※1 Michel de Certeau, 1980, L’invencion du quotidien, 1, Artes de faire, U.G.E., coll.. (山田登世子訳,2021,『日常的実践のポイエティーク』筑摩書房.)
1.ことばづくり
役所の仕事においては,いわゆるペーパーワークが非常に多い.少し前にグレーバーの著作をもとに書いたように,社会における「信頼」の確保の必要性が,理念や未来像を語った(騙った)ペーパーをめぐるブルシット・ジョブを生むという構図はここでも健在に思える.
そのなかで感じたのは、「ことば」をつくる機会が多い,ということだ.そしてぼくはその仕事がとても好きだった.
役所の仕事というと,社会の課題を何かしら解決するために「法律をつくる」「国の予算を決め,執行する」といったことが最初に浮かんでくる.そしてそこには,「ことばをつくる」という共通したしぐさがある.法律はそれじたいがことばでできているし,予算もことばによって使途/支給対象を限定しなければ執行できない.役人は社会へのアカウンタビリティを果たすため,その都度適切な粒度の,厳密な定義をもつ概念(ことば)を作らなければならない.
なぜこうなっているかというと,おそらく一般にシステムというものが,自身の内部の語彙=意味体系を発達させることで,複雑化する世界=環境に対してなんとか対処しようとするからだろう.
ピロスマニ ≪ショタ・ルスタヴェリ≫
たとえばぼくがかかわっていたデジタル関係の政策分野では,ぼくが在籍しているあいだにもいろいろな概念が唱えられた."Society 5.0","Data Free Flow with Trust",「デジタルトランスフォーメーション」,「デジタルプラットフォーム」なんかがその一例だろう.「デジタルプラットフォーム」の法律上の定義を見てみよう.
やたらと長ったらしい上に,どうも読む限りは,「デジタルプラットフォーム」は「場」ではなくて「役務」を指すらしい.この法律においては,この文言にあてはまる「役務」は「デジタルプラットフォーム」であると解釈されることになる.
法律に使うことばには,特に厳密な定義が求められる.それによって,個人や法人の権利や義務が規定されるからだ.いわゆる法制局審査といったプロセスが発生するのもそのためである.法律をつくる過程では,過去の法律である言葉を定義した例があるか(「デジタル」はあるか,「コンピュータ」はあるか.「ネットワーク効果」は既存のことばでどう表現できるか……),一字一句に厳密な調査が行われる.そうしなければ概念の安定性が保たれない.法律という言語体系において新しいことばを生み出すことは,「タコ部屋」にぶちこまれた役人たちの培う専門性である.
デューラー ≪メランコリア≫
ちなみに法律以外に目を向けると,行政のつくることばの中には,前節で触れた「法律」ほどソリッドでない,より曖昧模糊としたものもある.たとえば,「Society 5.0」ということば.これは、文科省の審議会で以下のように言及されるくらいには曖昧なことばだったりする※2.
※2 ことばが曖昧であることそれじたいが悪いことだ,と主張したいわけではない.冒頭で引用したぼくの記事でも「ブルシット・ジョブ」という言葉の戦略的な曖昧さを指摘しているように,人々が似たような取り組みに付けられるラベルがあることは,社会のムーブメントを起こすうえで重要なこともあるだろう.
2.支配的な語り
さて,ここまで書いてきた通り,役人は仕事としてさまざまなことばを作る.そして行政がつくる語りには,社会に対する一定のインパクトがある.法律はそれじたいで対象となる者の権利義務を規定するし,「●●事業への規制」「●●関連株」など,いろいろなことばが資本市場にも影響を及ぼす.つまり,これまた前に以下の記事で言及したことだが,役人は「未来を決める競争」に参与している.
マグリット ≪大家族≫
また,もっと微視的な影響も考慮に入れないといけない.行政のつくることばは,世の中の分節のしかたとして社会で一定の地位を得て,個々のコミュニケーションで用いられることになる.たとえば,「国籍」.国籍法上の要件を満たす者が「日本国民」なわけだが,明らかに制度上の国籍の意義をこえて,在日外国人の方などへの差別が蔓延している.またもっとくだらない例でいうと,小学生の多くは「政令指定都市」を,法律上の都市計画の決定権限などについては理解しないまま,「なんとなくデカくてスゴイ都市」くらいに思っていたりするのではないだろうか.
つまり,行政のつくることばは,良くも悪くも世の中における「支配的な語り」となりやすい.テクノクラシーの作った意味体系は,ほかのシステムにも不可避的に影響する.
3.齟齬を肯定する
「官僚的」であるということは,線引きを明確にするということである.それは公正さを保つために仕方がないことだ.法律の対象が,予算の支給対象が,政治家や官僚の責任が,一定のラインで区切られる.
どれだけ真面目に感染対策をやっていようと,20時01分まで営業をしている店舗に渡す給付金はない.ホームレスの方々の生きる場所は,スタジアムの近くであってはならない.マージナルな存在は0か1かに線引きされ,その「マージナルさ」は不可視化される.
支配的な語りが広がるほどに,世の中にあまた存在するローカルな意味体系が,官僚制の意味体系に沿って解釈され直す.先ほども触れたとおりそれは行政の行為をこえて,日々をいきるぼくたちの相互行為にも貫入してくる.
マグリット ≪ゴルコンダ≫
ぼくたちが権力というものを一定程度必要なものとして受け容れるかぎり,このことじたいは防げない.だとすると,ローカルな語りをどう保存し,マージナルさを,支配的な語りとそうでない自分たちの語りのあいだの齟齬をどう積極的に位置付けていくかという戦術がたいせつになる.
したたかに意味を保全し,発展させる試みは,さまざまな形で存在する.一例として,「地方」という観点では,(結構古いが)評論家の三浦展の造語「ファスト風土化」のようにひとつの語りがローカルの意味体系を侵食していくという欲動が一方にある.しかし,それに対して地方は,それぞれの形で自身の意味体系とアイデンティティを保っている.
たとえばぼくが役所の研修でかかわりを持たせていただいた鯖江市.この場所では,「ゆるい移住」やRENEWをはじめとするイベントで現地の意味体系を積極的に現地に住んでいない人びとのそれと交差させるなかで,支配的な語りに回収されない意味体系を積極的に維持・発展させていた(と,ぼくは解釈している).
長い歴史をもつ指物屋が,工房に一般客を招き入れる
そして,ぼくがたいせつだと思うのは,こうした試みは単に「権力に抗う」といった対立構図を作るのではなく,より繊細な描線を描いているということだ.かつて試みられてきたような「大いなる抵抗」は,別の新たな支配的な語りを生み出すだけだ.
支配的な語りをすべて否定するのではなく,自分たちの語りとのあいだの「齟齬を肯定する」.法律だろうと補助金だろうと使えることばは使いながら,寝技のように自分のやりたいことを通していく.冒頭に引用したセルトーが街ゆく人びとの足取りを描いたように,ネグリ&ハートが≪帝国≫を所与のプラットフォームとしてその上にいるマルチチュードのポッセに賭けたように,意味の闘争はよりゲリラ的になっているのではないだろうか.
ドーミエ ≪蜂起≫
4.ふたつのありえる道筋
こうした「齟齬を肯定する」試みは,コロナ禍でますます求められているように感じる.実はぼくも役人時代に,コロナ対策関連のとあるプロジェクトにかかわっていた.2020年のGWを職場で過ごしながら,「夜の街」やら世代間の扱いの違いやら,さまざまな語りが寄せては返すのを眺め,ほんとうに意味のある世界の分節のしかたが誰にもわからなくなっているさまを肌で感じていた覚えがある.
マグリット ≪傑作もしくは水平線の神秘≫
なお,ここでもう一つ,「反省性」という契機も,テクノクラシーへの期待をこめて付け足されて良いかもしれない.たとえば朝田佳尚は,監視カメラの設置をめぐる商店街の意思決定の過程をたどる質的研究をつうじて,ある商店街の構成員が自ら生み出した監視カメラにかんする語りを見つめなおす,「開かれた反省性」を見せたことに注目している(朝田 2019※3).これは,「齟齬を肯定する」といった試みよりも直接的に,テクノクラシーの支配的な語りそれじたいを反省し,修正していくというプロセスである.コロナ禍をこえた先にこうした実践が生まれることを願うばかりである.
いずれにせよ,支配的な語りはなくならないし,それは悪いことではない.しっかりと吟味された概念をテクノクラシーが発信していくことは,引き続きたいせつなことだ.ただ,そこには反省性であるとか,齟齬を肯定する試みであるとか,何にせよ「こぼれ落ちるものをいかに包摂していくか」という視点がセットであったほうが望ましいということは確かだろう.そして,それはテクノクラシーじたいよりも,ぼくたち自身の語りによって担われなければならない.
ぼくは立場を変えて,先ほど書いたような「齟齬を肯定する」微視的な実践を,さらに一段視点を変えて記述するようなことばをなんとかつくれないかと今思案している.
※3 朝田佳尚,2019,『監視カメラと閉鎖する共同体――敵対性と排除の社会学』慶應義塾大学出版会.