あの憎めない笑顔の前兵庫県知事、井戸敏三さんについて
僕は淡路島生まれで、今は神戸に住んでいるアラフォーだ。
このほど兵庫県知事に斎藤元彦さんが就任された。
前知事は、言うまでもなく5期を務められた井戸敏三さんだ。
僕はどちらの方の肩を持つつもりもない。
井戸さんは、以前、「首都直下地震が東京一極集中打破のチャンス」というようなことを言われたり、
「大阪と兵庫の間に物理的な壁をつくればいい」、といわれたりある意味物議をかもす人だった。
ただ、僕は5期を全うされて去って行かれた井戸さんに、「お疲れさまでした」と申したいです。
昔からどちらかというと反権力、改革派の意見を持つ僕は、大勢側・保守派はとは言えず、
最初は井戸さんの支持者という訳でもなかった。
しかしそんな僕の心を奪った瞬間があった。
確か Youtube か何かで、井戸さんが、僕の故郷淡路島の小さな集まりで、
寄り集まられたお年寄りたちに、
ちょっと唐突気味に「私、諭鶴羽山(ゆづるはさん)がだいすきなんですよ」と言われているのを目にしたのだ。
普通ならそんな白々しいことを言っても・・・、とくるだろう・・・。
井戸さんは毎日を県庁側、本州側で過ごされているだろうに、人気取りだろうなと最初は思った。
でも僕の脳裏によぎったものがあったのだ「首都直下地震が東京一極集中打破のチャンス」という、失言。
そんな言葉の裏にある井戸さんの気持ちは、昔、石原慎太郎さんへ向けて、
井戸さんの前の知事、貝原さんを侮辱されたととったのだっけかな、
「その程度の防災の心構えだったら都民の方、夜もよく眠れないのではないでしょうかね」といった風な皮肉にも見える。
ただし僕は石原慎太郎さんも好きなモノ好きだが。
それらを聴き、また維新とは違うカラー持っていながらも、
大阪都構想の二度の否決に井戸さんが悔しさをにじませた姿を見たのも手伝って、
「あ、この方(井戸さん)は兵庫県民を誰より愛されているんだろうな」と直感・直観が働いた。
この度の兵庫県知事選の金沢さんへの応援演説でも、「地方は中央の言いなりのままでいいのでしょうかね!」と、叫び続けた。
僕は井戸さんサイドも、斎藤さんサイドも、どちらも言い分があると思っている。
まあ中央の論理もあるだろう。
ただ、兵庫を愛し、地方を愛し、何より兵庫県民を今でも愛している姿は僕の心を震わせた。
そして思うようになったのは、大将の器とは、本来『人柄』であるべきではないのかということだ。
批判はいっぱいあったが、僕は井戸さんのような器(人柄)の方だったら、
ある意味、高級車センチュリーに乗られてもいいのではないかと思うのだ、「時代錯誤、財政を見ろ」、様々な声があるけど。
センチュリーに乗りたい夢をかなえてあげてもいいかなと思う、県民として。
維新流の Yes or Noに一石も二石も投じてきたのが井戸さんだ。
物事をはっきりさせる橋下流は、危急存亡の時代には当然必要となってくるから、それに異論はない。
ただ、井戸さんのような、敵をつくらない県民の平等性を、重点的に思われる方にはとても目の上のたんこぶだったかもしれない(笑
くどいようだが、どちらの肩を持つつもりもない。
ただ、井戸さんが役職を去るとき「刷新という言葉に、刷新されてしまったんだからしかたないじゃないの・・・」、
と言われた姿がなんとも寂しく、ほんとうに刷新という言葉で、
ある意味白黒はっきりマイナスイメージを背負わざるを得ないというのは、いいことなのだろうか。
これまでの功績もあるだろうに。
全てを否定されてしまいかねない言葉に・・・。
おおきな改革、政治的結果については乏しいとも意見されることもある井戸さんだが、
誰にでもやり方はあるが、井戸さんとしての、弱い立場の者を護るかたくなな姿勢を最後まで貫き、
自分より強大なものに対して立ち向かっていったことは、何よりその人柄そのものだと思う。
褒めすぎにはなるかもしれないが、
リタイア後の人生をそういう刷新されたイメージで過ごすことも覚悟されて挑まれた知事選・金沢和夫さんへの応援だったと思う。
斎藤さん応援の自民党の議員さんが言ってられた、「勝者には度量が必要」。
度量とは、自分を悪く言うものでも、聴くべきことは聴く耳を持ち、受け入れる器。
いい言葉だなあと思った。
斎藤さんにはその度量でもって、井戸さんが本当に伝えたかったことも咀嚼していただいて、自らの想う愛で、県民を未来へ導いてほしいと思います。
頑張ってください。
そして、井戸さんには、これからも兵庫県民をずっと愛していっていただきたいと思う。
口下手で不器用なところはあるけど、その憎めないほがらかな笑顔で。
僕は美術作家として、社会の美しさを、ますますのものにしていかなきゃな。
Rose Garnet