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死亡確認の後に…

「心音、呼吸音の停止、瞳孔の拡大、対光反射の消失を確認しました。これをもちまして、死亡確認とさせていただきます。死亡時刻は○時○分です。」

主治医は深々と頭を下げる。長く頭を下げ、家族が少し落ち着いた頃、主治医は患者のこれまでの経過を説明した。事実を述べた上で、剖検の希望の有無を訪ね、希望しないことを確認して、僕と主治医である指導医は部屋を去った。

僕にとって医師になってから、はじめての担当患者の死だった。救急外来で亡くなりゆく方を見ることはあるが、その方々はすでに心停止した状態で運ばれてくることがほとんど。元気な状態を僕らは知る由もない。一方、入院でみていた患者は数週間という短い期間ではあるが、言葉を交わした人たちだ。だから僕にとっても複雑な気持ちが溢れていくような出来事だった。

死亡宣告のあとに、患者に声をかける医師をドラマで見ることが多い。

「苦しまずに亡くなられたと思います」「ここまでよく頑張られました」「ご家族の方も頑張られましたね」「〇〇さんは幸せだったと思います」

死亡宣告マニュアルに書かれたこのような言葉をかければ、家族の想いの表出も可能かもしれない。想いの表出ができれば、もやもやとした気持ちで病院をあとにすることはないかもしれない。でも僕にはまだそこまで踏み込む自信はない。「苦しまずに亡くなられたと思います」という自信がない。苦しまずに亡くなったかと言われると、呼吸をしようともがいているように見える患者であれば、やはりちょっとは苦しかったんじゃないかと思う。「頑張りましたね」とも言える自信はない。頑張ったという言い方は上から目線のような気がする。こんなペーペーの医師が言えるような言葉ではない。「〇〇さんは幸せでしたね」とも言えない。幸せだったかどうか。それは本人しかわからないからだ。たしかに亡くなりゆく運命だったのかもしれない。それでも、もしかしたら、もう少し早く僕らが治療を諦めていれば、自宅に帰れたかもしれない。あのとき、抗菌薬を変えていたらもしかしたらもう少し長く生きていたかもしれない。まだ患者にはやり残したことがあったかもしれない。そう考えると、とてもじゃないけど、幸せだったと思います。という言葉を亡くなられた患者に僕はかけることができない。

そう思うと、僕はただひたすらに頭を下げるしかなかった。ただ死亡確認の後に深々と頭を下げ続けることしかできなかった。少しでも家族の救いになる、家族が自分の想いに向き合うことのできる言葉をかけることのできる医師になりたいと願った。


死亡確認の後は、エンゼルケアを看護師がしてくれる。死亡後に医療器具を取り除き、清拭、メイクなどを行ったりする。エンゼルケアを行った後、きれいに整った患者さんを見送る。葬儀社の方がご遺体を迎えにくるのだ。病院の出口につけた葬儀社の車に患者さんを乗せ、主治医、担当看護師で見送る。ここでも僕たち医療者は深々と頭を下げ、見送る。葬儀社の車が見えなくなるまで、僕らはひたすら頭を下げ続ける。いつも、もっとやれたことはあったんじゃないかと思いながら、ご冥福をお祈りしている。

そう言えば、1年ほど前、母が亡くなったときの主治医も深々と頭を下げてくれた。僕は医学生だったので、お見送りをすることは知っていたが、父は知らなかった。主治医が見えなくなるまで看護師とともにただひたすらに病院から見えなくなるまで頭を下げ続けていたことにひどく感銘していた。主治医は、亡くなるまで僕らの想いに寄り添い、できる限りの提案をしてくれた。だから感銘していたのかもしれない。それでも亡くなった後、医療の手を離れた後も、できる限りのことをしてくれる医療者の姿に感動したんだと僕は思っている。あの医師はどんな想いで見送っていたんだろう。と患者を見送るたびに思う。僕と同じようにやれたことはあったんじゃないかと後悔していたんだろうか。それとも、医師としてできるだけのことをしたという自負があったんだろうか。

果たして、数年後の僕は、医師としてできるだけのことをしたという自負を持って患者を見送ることはできるんだろうか。


僕ら医療者の仕事は見送るところまでで終わる。その後に医師が関わることはない。それでも家族はその後もその家族のいない生活が続いていく。通夜、葬儀、初七日、四十九日、その後の日常生活。その過程で家族は回復することができたのか、僕ら医療者は知らない。もしかしたら、家族は悲嘆にくれて回復できないかもしれない。精神科や心療内科に受診していればいいが、そればかりではない。本当は家族の回復の過程を葬儀社やお寺に任せるだけではなく、回復を支える医療があってもいいんじゃないか。その家族がいない生活に、適応できずに、回復できなかったとき、医療者が救いの手を差し伸べるようなカタチがあってもいいのではないか。それを人はグリーフケアというのかもしれない。すでに救命救急センターでも臨床心理士が常駐し、亡くなりゆく方の家族のケアをしている病院もある。その病院では、転げ落ちそうな遺族のために、患者が亡くなった後もグリーフケア外来という形でケアされているそうだ。宗教観の多様性から、お寺や葬儀社がその役割を担えない状況になっている今、医療が家族の悲嘆からの回復を手助けする必要があると僕は思っている。

死亡確認の後も、医療者の仕事は残っている。

※この文章は日経メディカルに連載中のコラム "「医療」ってなんだっけ"を加筆修正したものです。

(photo by hiroki yoshitomi

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守本 陽一
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