インフレと政府の役割~「年収の壁」の引き上げでみんな幸せに?~「経済学で語りたい」#4
本noteはいち経済学者があれこれ考えたことを時間のある時に書き綴るものです。
今回は先の衆院選から話題の「年収の壁」の話。
「103万円の壁」や「130万円の壁」のことですね。
にわかに政策議論が巻き起こっているので、ニュース等であまり語られていないことも含めて論点を提供できればと思っています。
二つの年収の壁
※ここでは所得の壁について説明をしますが、基本的に稼ぎ頭(世帯主)は自営業ではなくサラリーマンや公務員などの仕事に従事し、配偶者と子ども(高校・大学生)はパートやアルバイトを想定しています。自営業となると少し異なるので、その点はご了承ください。
所得の壁には主に二つの種類があります。
1つは「所得税(103万円)の壁」、もう1つは「社会保険料(106/130万円)の壁」です。
「所得税(103万円)の壁」は、扶養されている家族(稼ぎ頭(世帯主)の配偶者や子ども)の所得が103万円を超えると本人に所得税が課され、また世帯主の所得控除が減り、税負担が増えるため、配偶者や子どもがパートタイム労働の時間を制限するというインセンティブがある、というものです。
一方の「社会保険料(106/130万円)の壁」は、パート先の条件にもよるのですが、106万円または130万円という金額を超えると、社会保険の被扶養家族から外れることで社会保険料負担が発生するものです。
子どもであれば、親が加入する公的医療保険(健康保険等)の被扶養家族から外れ、被保険者本人として国民健康保険(国保)に加入しなくてはいけません。
配偶者であれば、国保に加え、従来、パートナーの所得から支払っていた第3号被保険者が外れ、被保険者本人(第2号被保険者)として厚生年金保険料を支払う必要が出てきます。また、年齢が40歳以上であれば介護保険にも被保険者本人として保険料を納めないといけません。
所得が100-200万円程度であると社会保険料は減免を受けることができますが、それでも年間10万円前後の保険料負担となるわけですから、やはりこちらも労働量を制限するというインセンティブが生じます。
国民民主党の掲げる「103万円の壁」の引き上げの意義と論点
2024年10月の衆議院選挙で、国民民主党はこの「103万円(所得税)の壁」の引き上げを主張し議席数を大きく伸ばしました。
選挙後の政局においても、野党第一党である立憲民主党を差し置いて、国民民主党が政局の中心として連日、政策調整が行われています。
おそらく、この選挙までほとんどの人々は税や社会保険料、あるいは給付や補助金/助成金に着眼し、所得税の根元にある「税控除」には着眼してこなかったのではないでしょうか(恥ずかしながら私は経済学者でありながら、これまで控除に対して深く考えることはありませんでした)。
また、控除の根拠法は社会保障と同じく「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を述べた憲法25条であるとのことです。
参考サイト:田中康男「所得控除の今日的意義―人的控除のあり方を中心として―」『税大論叢』(2005)
103万円の根拠は基礎控除48万円と給与所得控除55万円の合算なのですが、いわば所得のうちこの103万円は生活や仕事に必要なお金だから課税対象から外す、というものですね。その性質上、その金額が引き上げられることで、課税対象所得が減り減税となるわけです。
国民民主党の玉木代表の主張は「103万円という基準は1995年に定められ、そこから30年近くが経過し、経済社会の状況が変化し、国民の生活にかかる費用が増えているのに、控除金額をこの金額に据え置いているのはいかがなものか」というものです。
ここまではぐうの音も出ない正論なわけでありますが、その目標金額は「最低賃金の上昇幅に合わせて178万円にする」とのことでした。
この基準に関しては議論の余地があると思います。
控除の根本として憲法25条の最低限度の生活を掲げるのであれば、生活保護制度における最低生活費の推移に合わせるという案も考えられます(ごめんなさい。計算が煩雑になるので具体的な数値は今回は省きます)。
「生活に基づく費用」であれば、例えばですが消費者物価指数に合わせるというのは一つ考えられる意見です。
2020年基準消費者物価指数に基づくと、1995年から2024年にかけて同指数は1.13倍になっている。つまり、平均的な世帯の支出は13%増えているのだからそれに合わせて116万円にするというのも一案です。
ともあれ最低賃金の根拠法もまた憲法25条です。
普段は同列に語られることのなかった労働基準法における「最低賃金」と生活保護制度における「最低生活費」に横串を通して、消費者物価指数なども踏まえた政策議論が必要になってくるかと思います。
単純に「基準として最低賃金が最善である」という結論には至らないという論点を提示させてもらいます。
厚労省が構想する「106万円の壁」の撤廃の意義と論点
103万円の壁をめぐる政局に呼応するように、11月8日に厚労省から「106万円の壁」の撤廃の法制化を目指す議論が出てきました。
参考ニュース:共同通信「厚生年金、年収問わずパート加入 「106万円の壁」撤廃へ、負担増も」
今まで、パートタイムの配偶者は自身の年金保険料を、稼ぎ頭(世帯主)が支払い自身は支払う必要はありませんでした(第3号被保険者)。
週20時間以上働く人の場合、企業規模が51人以上であると106万円未満、それ以下の企業規模だと130万円未満が、第3号被保険者でい続ける条件でした。
本改革が行われると週20時間以上働くパート労働者はその就業先の規模に関係なく、第3号被保険者から外れ、年金の第2号被保険者となり、保険料が徴収されることとなります。
保険料は所得の18.3%を雇用者と労働者の労使折半で支払います。
他方、第3号被保険者であれば給付される年金は基礎年金のみ(年額78万円)ですが、第2号被保険者となるので基礎年金に加えて厚生年金(所得比例)も加わります。
「103万円の壁」の撤廃に関しては減税で国民の可処分所得を増やすものでしたが、このように「106万円の壁」の撤廃は現在の国民の負担が増えるものです(もちろん将来の給付は増えるのですが)。
ゆえに、106万円の壁の撤廃に関しては、昨今の政局をめぐる103万円の壁の引き上げのバーターのように捉えられる風潮もあるようです。
ただ、厚労省としては結構長い期間をかけてパートタイマーの厚生年金加入を進めており、巨大地震のようにいつかは具体化に向けた動きが起こりそうな機運は高まっていました。
参考ニュース:日経新聞「厚労省、年金改革へ5案検証 パートほぼ全員加入案など」(2024/4/16)
ただ、本改正によってみんなが所得制限を気にすることなく働くようになるかと言えばそうとは言い切れません。
おそらくですが、次に壁として立ちはだかるのは「週20時間労働の壁」です。
保険料を払いたくないというインセンティブは残りますから、週19時間に労働時間を留めておくという人が一定数発生しそうです。
同時改革によるインフレへの懸念
2つの所得の壁の改革が同時期に進められていく際に、無視できない要素がインフレ(物価上昇。インフレーション)です。
インフレと財政の関係は経済学における伝統的な研究対象です。
基本的にインフレの構造は2つに分類されます。
一つ目は「コストプッシュ型インフレ」です。
原材料の生産や流通が滞ると、その価格が高騰し、物価上昇を引き起こすというものです。
二つ目は「デマンドプル型インフレ」です。
可処分所得が増えることで、商品やサービスへの支払意思額が増えます。早い話、今までの所得だと買わなかったようなものも、追加で買うようになります。そして、企業が需要の拡大に対して十分に生産量が増やせない場合には高い値段を付けても、その商品が売れるようになります。
こうしたインフレを抑制する手段として、累進性の税を徴収することで可処分所得を減らす政府財政の機能(ビルトインスタビライザー)や、公定歩合(金利)を調整して貨幣流通量を減らす中央銀行の機能があります。逆に、政府が税金をあまりとらなかったり、債券(公債)を発行して市場の貨幣流通量を増やすとインフレが起こります。
さて、昨今のインフレ事情を一般的に解釈するのであれば、ウクライナ戦争関連で穀物・エネルギー価格の高騰により起こったインフレは前者であり、コロナ明けの消費拡大やインバウンドによるインフレは後者と解釈できます。
まだ詳細な検討はなされていないかもしれませんが、2024年におけるインフレは春闘の結果、5%にもおよぶ賃上げ上昇を実現させた結果のデマンドプル型インフレだとも解釈できそうです。
参考ニュース:ロイター「春闘賃上げ率5.10%、33年ぶり高水準 ベアは3.56%=連合最終集計」(2024/7/3)
先に挙げた所得の壁をめぐる2つの改革ですが、もちろんインフレに影響を及ぼします。
所得税控除引き上げに伴う、103万円の壁の引き上げですが、これは国民の可処分所得を引き上げるもので、デマンドプル型インフレの要因になります。
そこには7.8兆円の予算が必要だと試算されていますが、単純に解するのであれば、国民が7.8兆円を手にすることになります。
もちろんその全てを消費に回すことはありませんが、長期的にはその45~50%程度が消費に回されること(限界消費性向)が分かっています。
参考サイト:大和総研「日本経済見通し:2024 年 6 月-定額減税の効果と課題/中小・零細企業の賃上げ動向」
106万円の壁の引き上げはどうでしょうか?
国民の負担が増え、可処分所得が減るからインフレの逆であるデフレ要因になりうるか、といえばそうとは言い切れません。
今まで対象となっていなかった中小零細の事業所に対し、保険料負担が求められます。
パートタイマーにも18.3%の厚生年金保険料が課されるのですが、そのうちの半分はパートタイマー本人、半分は事業者が支払います。
仮に、週に10000円の稼ぐパートさんは、10000円のうち915円の保険料を納め手取りは9085円に、事業主はバイト代に加えて915円の保険料を納めないといけないので、人件費として10915円が費用としてかかります。
将来時点においては、この保険料は給付されるため、市場に流れるのですが、現在時点のインフレへの影響を確認しましょう。
現在時点においては、パートさんは可処分所得を減らすのでデフレ要因になります、他方、事業主からすると人件費という商品やサービスを提供するための費用が高騰するので、それを価格に転嫁するとなるとインフレ要因になります。
特に、人件費率が高い、あるいは労働に占めるパート比率が高い業種においてその傾向は強くなるでしょう。
社会全体で見たときに2つの改革の影響は以下の通りです。
物価への影響
①控除引き上げによる全体の可処分所得の上昇(デマンドプル型インフレ)
②厚生年金保険料の事業者負担の価格転嫁(コストプッシュ型インフレ)
③厚生年金保険料の本人負担増(デフレ)
可処分所得
①フルタイム労働者:++
②パートタイム労働者:±か+
それぞれの影響がどれほどのものかは、現段階ではなんとも言い難いところです。
労働市場全体に占めるパートタイマーの割合からもデフレ要因は小さく、むしろ、二つのインフレ要因がそれぞれ結構大きなものとなることが想定されます。
では、その際に各家計に与える影響ですが、家計に占めるパートタイマー収入の割合が大きい世帯ほど、現時点での恩恵は受けにくいという構造になりそうです。
ゆえにこの2つの改革を同時期に実施するという事は、いたずらに一部国民の生活を不安定化させ、先行きが見えない経済状況を作り出す要因になりかねません。
もちろん、目先の所得拡大を求めている人がいることも重々承知の上ですが、これらの全体的な改革は段階的に推し進めるべきと考えます。
控除の引き上げをするのであれば、その程度に応じて数回に分けて引き上げ、そののちに厚生年金の対象者の拡大といった具合にです。
安定成長の背景には、急激な可処分所得の拡大や減少は避けることが定石であり、急激な貨幣流通量の拡大が投機を促しバブル経済を形成することは歴史が証明しています。
急激な変化に対して、消費者目線では消費を増やせるかもしれませんが、生産者はそうした状況に合わせて生産量を変化させるのに多少の時間がかかるのです。
コロナ禍前後のマスク価格の高騰を思い出すといいと思いますが、今は需要に合わせて生産量が確保され、価格も落ち着きました。
なので、改革の際には急激な変化を避けるような手段が望ましいと思います。
配偶者手当・扶養手当という隠れた壁
最後に所得の壁は本当に所得税と社会保険料によるものだけなのか、という論点も提案しておきます。
その論点は、各企業等が福利厚生として実施している「配偶者手当」「扶養手当」などの家族向けの手当です。
つまり、配偶者や扶養家族がいる社員に対し、一定の金額を手当として給付する社内制度です。
ただ、あくまで社内制度であるため、実施している企業としていない企業もあります。
当たり前ですが、名称すら統一されていません。
扶養の条件についても、所得の区切りが103万円だったり、106万円だったり、130万円だったり多様ですし、その金額も企業ごとにまちまちです。
令和2年就労条件総合調査によると、68.6%の企業がこうした家族に対する手当を支給しており、金額も平均すると月1.76万円となっています。
年換算すると21万円ですから、その規模も無視できないです。
参考サイト:厚生労働省「令和2年就労条件総合調査 結果の概況」
政府もこうした家族への手当とその条件が、就労抑制に繋がっているとして、国家公務員の配偶者手当の減額を段階的に行っており、その方針に追従する企業も増えています。
参考サイト:ニッセイ基礎研究所「配偶者手当を廃止する企業が増えていることを知っていますか。」(2024/2/6)
先に挙げた所得税と社会保険料に関してはあくまで国の「制度」に関することですから、政府内の議論と調整で対応可能ですが、こちらは企業が主体ですので政策的なコントロールが簡単ではありません。
また、金額から見ても分かるように、パートタイムの所得調整を行うには十分な金銭的インセンティブもあると思います。
このインセンティブがある限り、103万円の壁を引き上げても、期待されていたほど労働供給が増えないかもしれません。
エピローグ
さて、ここまで所得の壁をめぐる論点を示してきました。
先の衆議院選挙において、控除が話題にならなければ、そして政局が起きなければ、こんなに所得の壁について考えることもなかったでしょう。
本文中にも書きましたが、自分が最も懸念しているのはインフレへの懸念です。
国民民主党の施策について、7.8兆円をいきなり国民に還流するのはその拡大した需要を受け止めるだけの生産拡大に間に合わないと思います。
なので、引き上げるにしろ段階的にというのが、最も国民のためになるのではないでしょうか。
また、同時に社会保障費用に関してはひっ迫している状況です。
106万円の壁の撤廃も、予定されていたとはいえ、国民の負担を増やすものです。
今後もどこかで負担増は避けられないと思います。
また社会保障全体のお金の話とかは、今後どこかでしたいですね。
なんとかみんなで政策理解を深めて今後の日本の政策のあり方を考えていく、今回の政局から生み出された本記事が、その一つの種になれば幸いです。
それでは。