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ひとつづきのもの

今日は作業所の半休をとって午後から京都に行った。
駅に行く道中着信履歴を確認すると、最終面接を行っていた企業さんから電話連絡があった。急いで折り返す。結果は合格とのこと。入社の日程調整までは安心できないが、とにかくA型作業所 a.k.a 貧困ビジネスを抜け出せそうで良かった。フルリモートとはいえ、今までより週10時間労働時間が延びるので、体調がもてばいいけど。

京都でシルクロードの仏教壁画について講演を聴きに行く。
この間の大シルクロード展(途中でレポ放棄してますね)で、敦煌莫高窟壁画の模写を観た。中央アジアと中国の折衷様式で、日本人が慣れ親しんでいる浄土変相図のもとになったものもあり、私たちと地続きになっているような印象だった。

今回はそれより西域のクチャについて。漢訳仏典の旧訳で有名な鳩摩羅什の出身地だ。
肥沃な土地や膨大な鉱山があり、シルクロードのオアシスとして栄えたクチャ。経済大国として繁栄し、様々な勢力のもとに支配されたものの、紀元前2世紀~9世紀までは一定の独立性を保ってきた。のちにウイグルが支配してイスラム化するまでは、仏教が尊ばれた。言語的にも、サンスクリットに近い古代インド・ヨーロッパ語族のトカラ語B(クチャ語)を用いるため、仏教文化や経典をダイレクトに理解できる利点もあったという。
5世紀からシルクロード全体にかけて、石窟寺院がホイホイと作られるようになるが、むろんクチャも例外ではない。
石窟寺院の壁画は、支配勢力により様式が移り変わっていく。
特に西突厥の支配下に置かれた第2インド・イラン様式のものは、豪華だ。西突厥は最初の本拠地をクチャ近くに置いたため、石窟寺院も大変恩恵を受けたわけである。
ラピスラズリ(アフガニスタンで採掘できるもの。他の地域と違い純粋なものを使っているらしい)・金・銀といった大変高価な顔料をふんだんに使いっている。私は青色がとても好きなので、いつか現物が見たいなと思った。
むろん、ラピスラズリが他の顔料にくらべて比較的残りやすい顔料だったわけであり、当初は青以外の顔料も使っているはず。もっと鮮やかなものだったはずだ。

特に印象に残ったのは、圧縮図法というある種の異時同図法。
身近な例を挙げると、法隆寺の玉虫厨子。仏教説話である「捨身飼虎図」の優雅な落下と虎に食べられる凄惨な場面を、一枚の板にまとめて描いている。中世に隆盛した絵巻では、同じ登場人物による動きを1枚の場面におさめ、時間が経過していくさまを描く。少しずつ巻きだしては戻す絵巻の読み方を考慮すると、さぞかしアニメーションのように見えたと思う。
私は全く明るくないが、中世~ルネサンス初期の西洋画でも1枚の絵画に1人の人物を複数描く技法がある。
絵の写実性が確立して、これまとめんのはなんか変じゃね?と思うまでは、1枚に同じ人間の違う場面を描いても構わないし、鑑賞する側もそれを理解できた。

スライドで紹介された、キジル第206窟のエーラパトラ龍王の帰仏を挙げる。
釈迦は、単体で中央に描かれる。
龍王は釈迦を取り囲むかたちで複数場面で登場する。前世/現世での苦しみ/現世で説法を受けて喜ぶ龍王。1枚に現世だけではなく輪廻転生や因果律を納めてしまう端的さ。

現代人にとって過去ー現在ー未来は一生涯のものにしか過ぎない。しかし、仏教に篤かったひとびとにとっては前世ー現世ー来世がひと続き(仏教以前の輪廻転生の教えでもあるわけだが)であり、それを1枚の図に納めてもOK!なのである。
とてつもなくスケールのでかい異時同図法だ。

この龍王は前世で葉っぱをむしった罪で、頭に木が生える苦しみを味わったわけだが、七劫ののちにその苦しみは無くなるだろう、ということを釈迦に説かれて喜ぶらしい。仏教では劫の具体的な単位は決まっていないが、とてつもなく長い時間には違いない。喜んでいいのかわからない。

別の部屋には王族供養者や案内する僧の絵も描かれる。過去の出来事(仏教説話画)だけではなく、現在進行形でそれを鑑賞する人の絵も登場する。
客体となる絵ではなく、見る側である主体も巻き込んで描かれていて、時間軸も空間軸も入り混じっているありさまが、大変おもしろい。

その他にも、珍しく絵巻的な表現で描かれた石窟や、3次元空間を活かした転輪聖王の説話(争うことになる転輪聖王と帝釈天が壁同士で対峙するように描かれた)石窟の話も伺った。

20世紀初頭に列強によって持ち去られてしまった(初めて発掘したのはあの大谷探検隊)壁画は、世界各国の美術館や研究所に保管されている。なかには戦災で失ったものもある。それをパズルのように合わせて復元し、石窟空間や絵画を紐解いていく。デジタル化により以前よりは容易になっただろうが、研究者の方々の熱意や苦労はとてもじゃないが想像に及ばない。

クチャで信仰されていた説一切有部は、すべての存在が過去ー現在ー未来の三世に渡って存在し、われわれはフィルムの1枚のような瞬間を認識しているに過ぎないという。教学的なところはてんで分からないが。

iPhoneで一瞬を映した写真たちを見ていると、その瞬間だけで完結した過去がぽつんと横たわっているようで、なんとなく寂しかった。


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