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第12稿 「し」(死)について

ここでは、「あ」から順番に、それを頭文字とする言葉をテーマとして文章を書いていきます。


今日は「死」について書いていこうと思うのですが、少し重いテーマかなと思って、回避しようかと昨日から画策していました。

でも、他のテーマを思い浮かべても、「何か違うなぁ。」と思って、一周回って戻ってきました。


で、「死」についてです。
これはあくまで、今の私が感じていることなので、それを念頭に読んでいただけるとありがたいです。


何かこう、年々、死というものが身近になっていませんか?
私だけ?

たぶんこれは、災害がどこでいつ起こるかわからず、思わぬところで人が亡くなっていくことが以前より身近になっているからじゃないのかなと思います。

もう少し前は、自分と死が今ほどは身近ではなく、「いずれは死ぬだろう。」ぐらいの感覚だったように思います。

でも今は、「もしかすると明日死ぬかもしれない。」って、どこかで思っている部分があるのではないのかなと。

これ、私だけじゃないと思うのですが、いかがですか?

だから何となく、「やりたいことをやろう。」とか「このままでいいのだろうか?」みたいな気持ちが起こり、以前よりも自分の気持ちや欲に貪欲になって動く人が増えているように感じるのですが、どうなのでしょうか。

とは言え、「死」って私にとっては、子どもの頃からもどちらかというと身近で、死に対するとてつもない恐怖とそれを意識しつつの達観みたいな境地を併せ持ちながら、生きていたように思います。

きっとこれは、子どもの頃、父が、何か自分に都合が悪いことがあると「お父さんは死ぬかも。」と口癖のように言う人間だった影響が大きいのではないでしょうか。

子どもにとって親が死ぬ=世界の終わり、ぐらいの衝撃的なことだと思うのですが、何度もそれを聞くたびに、父の死に対する恐怖と、もう少し大きくなってからは、家族の生活への不安、それに、父が自分の死を都合よくちらつかせることに対する憤りなんかも入り交じり、死に対しての強大な恐怖を私自身の中に内包させながらも、表面的にはどこか死を突き放して見ているような子どもだった気がします。

そして、それは今も変わらないところがあるのではないのかなぁと。

どちらかと言うと、自分の死よりも、自分が大事に思う人の死が怖い。
それはその人自身がいなくなる恐怖とともに、子どもの頃と同じように、その人がいなくなることによる自分への生活の影響が怖いといったことも含まれているように感じます。

いつ誰が死ぬかはわからないから、結局は、今いかに自分が満足できるように生きるかしかないのかなぁ、そんなことを考えながら、今日も終わりたいと思います。


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