「ハリボテ訳」になっていないか
最近、ある人が英文の作品を和訳した文をみて、こういう翻訳の仕方があるのだと気づかされた。
一見、読みやすい日本語になっているのに、どこか不自然で、なにを言っているのかわかりにくい。
なぜだろうと考えて、思いついた。
これは「貼り付け訳」「表面訳」「ハリボテ訳」なのだ。
翻訳者とは、たとえば本物のトラを銀のトラに鋳直す造形家のようなものである。
造形家は、対象の表面の形だけを似せるのではない。対象のなかに入りこみ、本質をとらえて形態をつくる。だから一個の作品になる。
まずトラの気持ち=著者の認識に入りこみ、その認識を別のものに鋳直すような気構えが必要になる。
私がみた訳文はそうではない。
本物のトラに似た竹組みをつくり、市販の紙(日本語の決まり文句)を切って貼り付け、紙のハリボテをつくってトラのように見せている。
訳文の日本語表現が微妙にゆがんでいるケースが多いのも、ありがちな表現を選んで竹組に貼り付けているから。
どの部分も、元のトラの形からズレており、そのズレを修正しようとして、日本語の細部の表現もゆがむ。
竹組全体もゆがんでいる。
なるほど、これも一種の翻訳ではある。
だが、表面だけの貼り紙細工なので、中は空洞。
胸を打つ内容がない。