失恋はリムジンに乗せて
「お嬢様、到着いたしました」
ここはホームページも出していない秘密の場所。
黒い燕尾服を着た初老の執事に扉を開けてもらい、私はリムジンから降りた。
選ばれた人だけが来ることができる幻の「レストラン」
失恋を癒すレストランとも噂で言われている。
こんな素敵な洋館があったなんて知らなかった。
繁華街から5分と離れていない、大通りから1本裏に入っただけのわかりやすい場所だった。意外と気付いてないものだなと思いながら席に通していただいた。
しかし、私はなぜ今ここに座っているのだろう。
私はほんの2時間程前まで、なんとなく通りかかった古民家カフェのカウンターで珈琲を飲んでいたのだ。
初めて入るカフェ、そこで綺麗な所作で珈琲を淹れてくれた初老のマスターから
「こちらは初めてですか? 」と優しい口調で話しかけられた。
小さく頷き、出された珈琲を一口いただく。
珈琲なのにふわっと美しいワインのような上品な香りが口の中に広がり、なぜだかすごく切なくなった。
私は、1週間前まで彼がいた。
会社の同期で、3年程お付き合いをして私の23歳の誕生日にプロポーズをされた。
誕生日にフレンチレストランを予約してくれて、私はその時生まれて初めて『赤ワイン』を飲んだ。
だが1か月前に、彼の部署に突然来た派遣社員からの猛アタックにより彼の心は私から離れてしまった。
そう、失恋してしまったのだ。
珈琲の中にふわりとワインのような香りを含んだだけで、まだそんな些細なことで思い出し、時間に反比例した心は置いてけぼりになっていた。
マスターが「この珈琲はプリンセサワイニーと言いまして、ワインのような芳醇な香りが特徴です、お味はいかがですか? 」と話しかけてくれた。
ワインのような香り……それがきっかけで絡まった紐がするする解けていくように失恋までの話をしてしまった。
しばらくするとマスターは「今日はこれからどのようなご予定ですか? ぜひお連れしたいレストランがあるのですが」普段なら怪しい話、お断りするであろうが、なんだかこの流れに乗せてもらった方がいい気がしてならなかった。
不思議だが、自然に「お願いします」と口から出ていた。
「10分お待ちくださいね、準備をしてきます」とマスターはカウンターを出て行った。
そして、10分後、燕尾服に身を包んだ先ほどのマスター? 執事? が目の前にいてリムジンに乗せられ、程なくして到着したレストランで席に座っている。
席で待っていると、先ほどまでマスターだった執事が、メニューを持ってこちらにやってきた。
「今日は、嬉しかったことも、悲しかったこともすべての記憶を噛みしめて大切に味わっていってくださいね」と言った。
メニューにはお料理の説明など何も書いていなかった。
~記憶を辿る~
「余韻」
「序章」
「記憶」
「安堵」
「追憶」
これだけしか書いていない。いったいこれから何が始まるのだろう。
少し緊張しながら待っていたら一品目が来た。
執事が「こちら、余韻です。北海道の蒸し牡蠣と下に雲丹のムース、合わせてお召し上がりください、香りや味とともに思い出すことは、自分自身が確かに感じた大切な思い出、忘れる必要はありません。どうかこの味とともに余韻に浸ってください」と。
目の前に置かれた、かなり厚みのある石のようなお皿は、海岸の堤防を思わせ、その上に牡蠣の殻が器として乗せられている。
彼から付き合ってくださいと告白をされた時は二人で夜の海を見に来た日だった。
海風に運ばれた磯の香り、まだはっきり覚えている。
私は牡蠣と雲丹のムースをスプーンに乗せ、口の中に運んだ。
牡蠣は今までに食べたことのないプリプリで雲丹のムースと合わせてよりクリーミーでそのハーモニーが素晴らしかった。
余韻……確かに浸りたくなる。
少し間を置いて、二皿目の「序章」が来た。
執事が「こちら序章、菜花のポタージュ、上に乗っている泡のようなものはエシャロットのエスプーマでございます。暖かいスープで心も温めて下さい。物事の始まるときは、楽しみや不安たくさんの感情が生まれます。だけどどこから始まりかを決めるのは、自分自身です。この瞬間だって何かが始まっているはずです」と言った。
ああ、何か心を読まれているのだろうか。始まった恋はうまくいかなくてジ・エンド! そこで私のストーリーは終わって、時が止まっていたのだ。
スープを一口飲んだ。
菜花のほんの少しほろ苦い風味が、まろやかなクリームと合わさって、そこにエシャロットが柔らかくアクセントを添えている。
そうだ、菜の花だって光を浴び、水を受け、毎年育っているのだ。
この恋がうまくいかなかったからって私の人生が終わったわけではない。
なにより、この温かいスープが心を温めてくれるようだ。
ほっこりとした気持ちでいたら、次のお皿が来た。
「こちら記憶、本日のメインです。黒毛和牛モモ肉とフォアグラのロッシーニでございます。
お肉にはセロトニンが入っていて心のバランスを保つ効果もあるんですよ。今お嬢様に起こっていることは偶然でなく必然であるのです。どうかこれまでの時を終わったことではなく、大切な時間を過ごしたと思ってください」と執事は言った。
あ、BGMはロッシーニのセビリアの理髪師だ……
セビリアの理髪師は女性に恋をした伯爵、その恋を邪魔する人がいた。
だけどその物語は理髪師の助けのおかけでハッピーエンドとなった。
私も恋を邪魔されたけれど、今私に起こっていることが必然だとしたら、この恋が終わったことも必然で、もしかしたら私の運命の相手は彼じゃなかったという事だったのかもしれない。それならハッピーエンドということになる。メイン料理を食べながら、なんとなくそう思えてきた。
随分お腹も満たされ、心も満たされてきた気がしてきた。
待っていると、次のお品が来た。
「こちら安堵、デザートのティラミスです。ティラミスには私を元気づけてという意味が込められているんですよ」と執事が言った。
白いお皿の上に綺麗に盛られたティラミスを一口食べてみると、その甘さとほろ苦さはまるで恋心のようだった。
少し間を置いて執事が来た。
「最後に、追憶です。珈琲と小菓子はシトロンのマカロンです。お嬢様、先ほどと同じ珈琲をお持ちいたしました」と言って執事は去った。
ビタミンカラーのオレンジ色をしたシトロンのマカロンを味わってから、珈琲をゆっくりと流し込む。悲しくて止まっていた時が動き出した気がした。
もう先ほどのような切なさに襲われることはなかった。
不思議な時間だったけれど、置いてけぼりになっていた記憶のピースを拾い集めて、きちんと収められた時間だった。
すべていただいて、私はゆっくり席を立ちあがった。
執事が「お嬢様帰りのお車はどうなさい……」
とその言葉を遮るように「歩いて帰ります! 」という言葉が自然と口から出ていた。
帰り道に見かけた、どこぞのお庭から少し顔を出していた梅のつぼみがふくらみ始めていて、少しずつ春の気配を感じた。
「さよなら、私の恋」
動き出した私の時間、ゆっくり少しずつ前に進んで行こう。
春と呼ぶには少し早い、まだ冷たい空気の中、澄んだ夜空を見上げてそう思った。
≪終わり≫
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