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老いの途上で 『おらおらでひとりいぐも』 若竹千佐子

 老いることとは、いったい何であろうか。
 喪うことだろうか? 悲しむべきことだろうか? 誰しもが老いることの途上にいながら、老年に至って、否定の感情を抱え、気難しく孤立していくのなかで、人の老いはどこに至るのだろう。

 『おらおらでひとりいぐも』は、作者もまたひとりの老いゆくものとしての問題を抱えながら青春小説の対極、玄冬小説として、まさにこの「老いの途上にあること」を真摯に見つめ書かれた小説であると言えるだろう。老いゆく人間の実生活を描く筆致は事細かく見事である。
 老年に差し掛かり一人暮らしをする桃子さんは、心のうちに響き合うようになった《東北弁》で話す最古層の自身の声や生きて死んでいった大勢の人らの声を聴き、彼/彼女らと語り合うようになる。その声らに耳を傾けることで、自らの過ぎ去りし人生全体を、子どもらとの確執や、夫との死別といったgrief〈深い悲しみ〉を見つめなおしてゆき、それらを乗り越えることでこの先の老年を生き直していこうとする。彼女は、過去のひとつひとつに改めて意味を与えることで、「孤独を支え」、「悲しみが喜びをこさえる」というようにして、自らの人生を肯定しなおし、絶望も希望も抱えたままに、それでも次の一歩を踏み出していくのである。

 さて、簡単に言ってしまえば以上のような物語なのだが、小説の全体を読み終えてまずひとつの疑問が浮かんでくる。それは、桃子さんが心の中の声らに向かい合う姿勢について。彼女は本当に自らの心の中に響き合う声らと真摯に語り合っていたのだろうか、というものである。
 例えば、旦那である周造さん、そして遠い昔に亡くなった祖母。桃子さんは、本当にその人らの声のひとつひとつに耳を澄ませて、彼/彼女らの言葉と真正面から向き合っているだろうか? そういった真正面からの対峙のなかで果たされる喪の作業を経ることで、自らのgrief〈深い悲しみ〉を乗り越えていこうとする軌跡が見られるだろうか? 僕にはどうもそれがハッキリと見えてこない。
 多くの人らの声に耳を傾けているように見える桃子さんは、あくまで、徹頭徹尾、自分自身のなかで、独りよがりで、手っ取り早い〈納得〉のための自問自答を繰り返し、「手垢のついた言葉」で思い出話に意味を与えているばかりではないか。記憶の中の言葉たちは、結局、「おら」と呼称する桃子さんに都合よく響き、救いを与えてくれる紋切り型のありきたりの言葉に溢れている。悲しみも、また何処かで見たことのあるもので、桃子さんの血肉の底から滲みでてくるような悲痛さや切実さはあまりに見えづらい。

 また、桃子さんは周造さんの声の奥に大きな何ものかの声をきく。この感慨はわからないでもない。仏教的な、浄土系諸宗の阿弥陀仏〈一如〉的なものの存在を意識的にか無意識的にか(桃子さんは仏を信じていないと言うのだけれど)垣間見ることができる。それぞれの個別的で具体的であったはずの声らは、桃子さんの中でひとつの大きな声の中に収束されていく。桃子さんの趣味でもある「四十六億年ノート」を手掛かりに、人類の、この星の大きな歴史のつながり、桃子さんは遥かな太古から続く人間の生き死にの歩みに想いを馳せる。古層の記憶の扉をひらき、そこにつながっていこうとする。桃子さんにとって、そのつながりにこそ安心と救いがあるのだろう。その生きて死んでいったものらの総体とつながることによって、桃子さんはまた生きて死んでいった周造さんとのつながりをも取り戻すことができるのだ。これがこの小説の《戦略》であるらしい。

 しかし、その《戦略》の中で周造さんの声も、祖母の声も、桃子さんが本来大切に抱えてきたはずの声/言葉は大きな何ものかの中に取り込まれ、残らずその姿形を失ってしまう。このことの一端は、この小説のなかで一貫して用いられている《東北弁》という言葉にも現れる。《東北弁》という言葉は小説の中であまりにも安易に用いられる。《東北弁》とはいったいどのような言葉だろうか? 本当にその土地々々の言葉を、周造さんの言葉も、祖母の言葉も、そして桃子さんの言葉も《東北弁》という言葉に収束させていいものだろうか? それぞれの土地の、それぞれのものらの、それぞれの声/言葉を半ば強引に収束させた《東北弁》というあまりに暴力的な言葉、それを無自覚的に使ってしまうことのできる作者の文学的態度に、それを懐かしい《東北》の言葉などと感傷的に評してしまう読者の無自覚的な残酷さに絶望的な想いを抱かざるを得ない。そこには《戦略》の抱える矛盾と都市的な眼差しの暴力性と残酷性、《死者ら》への冒涜を感じずにはいられないのだ。

 この小説の全体を通して老いるからだとgrief〈深い悲しみ〉を抱えたひとりの人間は《全人間的復権》を成し遂げたと言えるのだろうか? grief〈深い悲しみ〉の根源、そこから発せられる言葉に向き合う作業はこんなにも淡々とこなされるものだろうか? 死者たちと語り合い、彼らと共に生きることとは、こんなにも切実さを欠いたものだろうか? 「伝えねばわがね」という桃子さんの言葉に希望を残しながらも、いくつかの大きな疑問もまたそこに残されたままである。

終わり。

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