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新しい死体(エッセイ)

日曜、彼女と渋谷PARCOの布施琳太郎『新しい死体』を観に行った。青い床が素敵だった。展示は文字や朗読を使った作品が半分ほどで、本かネットか、まとまった形でゆっくり読みたいと思った。青い装丁の詩集のような展示だった。



作品のひとつが、グリコビジョンで映像作品が流れるということで観に行くことにした。早かったので我々は東急ハンズに入り、健康用品のコルセットやマッサージ器で遊んで時間を潰した。作品は誘拐の犯行声明のように加工された声の朗読だった。雑踏や、途中で下品な広告を載せたトラックの騒音が入り、内容はわからなかった。

放送を見終えた私たちは定食屋に入った。安っぽいチェーン店だけど、焼き魚が美味しい店だった。目の前ではバイトの男が、細長い生の鮭肉をハサミで切っていた。カウンターには木製の山椒の瓢箪と、プラスチックの醤油瓶が置かれていた。銀鮭の塩焼きを食べながら、化石化して原油になる前の、アンモナイトの渦巻きのことを想った。



『新しい死体』というのは、どうやら「死体の不在」のようなことを言っているらしく、インターネット・ヴァーチャル化の進行によって「死体すら不在になった世界」で、私たちがどのように存在を確かめるか、というようなことらしかった。とりあえず私はそう解釈した。

その翌日である今日は、朝に頭痛が酷くて遅刻して行った。一日中なんとなく肌寒かった。それが気候なのか、体調のせいなのかわからなかった。普段着ている長袖のシャツに、職場に置きっぱなしにしていた薄手のパーカを羽織って帰った。昼食にと思ってキオスクで買ったベーグルが食べきれなかった。そういえばもう何日もコーヒーを飲んでいない。

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