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小説 #8

閻魔はその翌日、丸の内にある財閥系の美術館に行った、地獄からJRを乗り換え、東京駅の地下街を10分ほど歩くと、オフィスビルが林立するなかに突然美術館が現れる。曲線が強調されたガラス張りの不思議な建物だった。


いまはイギリス人画家の20年ぶりの回顧展が開催されていた。その画家は80歳を過ぎても現役で、この日本での個展に向けても、数点の新作を制作したということだった。


人間はつくづく湿っぽい。個人的な感情をこんがらがらせては、勝手にダメージを受ける。感情が仲間意識として正しく機能していたのは人間が定住を始めるまでだった。それからというもの、人間にはありとあらゆるエラーが起こり続けている。道具が抽象化し、暴力が非物質的になり、死に方は悲惨になった。生殖は醜くなるばかりだ。


その点アートはすばらしい。人間が作ったものとは思えないすばらしさだ。物質が目的もなく存在し、色が色として、まるで鳥のように佇んでいる。美術を残して、人間が消え去ってもいいくらいだ。


展示室は冷房が効いていて、運動して血の巡っていた脳が冷却されていくのがわかった。平日にも関わらず館内は人間で賑わっていて、ところどころで人流が滞っていた。肩を露出した女が解説の前で道を塞いでいて、リュックを背負った男とぶつかっていた。そんなに考え込むことでもなかろうと、閻魔はバカらしく思った。


最奥の展示室に飾られていたのは1点のみだった。キャンバスを繋いで、大きな画面に木々が描かれている。のっぺりと壁一面に広がる色彩が、身体に迫ってくる。閻魔は思わずニタニタと微笑んだ。


ミュージアムショップを抜けると、脇で小さな企画展が催されていた。若手作家の、人間らしい作品展だった。「あなたは美術館に来られているが、事情があって来られない者のことも想像してほしい」という趣旨の文章が掲示されていて、余計なお世話だと呆れた。


併設されたカフェでアイスクリームの乗ったワッフルとコーヒーのセットを頼んだ。カフェではエプロンを着けた店員が蟻のように忙しく配膳していた。コーヒーに砂糖を入れ、ズルズルと音を立てて吸い込んだ。


昨日やってきた判定中の女のことを思い出した。頬骨の出っ張った、いかにも不幸そうな女だった。その女のような人間の苦痛の上に、自身の幸福が成り立っていることを閻魔はよくわかっていた。同じように、自分が世界から憎まれて生まれた果実を、誰かに摘まれていることも知っていた。アイスクリームが口の中で溶けて、チョコレートの風味が広がった。



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