どんな知のあり方が可能なのか(エッセイ)
千葉雅也さんと浅田彰さんの対談に、「どんな知のあり方が可能なのか」という言葉があった。
「どんな知のあり方が可能なのか」。不思議な引っかかりがあって、心の中で10回唱えてみる。6回目あたりでだるくなってきて、何と言い換えられるのか考えてみた。「この時代には、どのような知のあり方が有効なのか?」「今の時代では、どんな性格のヒトが”賢い人物”なのか?」「この見通しの立たない現状において、知恵とは何か?」。質問をほぐして、すこしじっくり考えてみる。
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話は変わるが、昔から「野球」のことを考えることが多かった。
例えば、漫才のネタを書いていたこと。「1→2→3→4→5」という順序でボケを並べても面白くないネタが、「1→5→2→4→3」と並び替えると、急に面白くなることがあった。さらに"天丼"を盛りこんで「1→5→1→2→4→2→3」のように複雑にすると、ネタが格段に良くなったりする。同じものが順序を工夫することで意外性を演出すること。それを私は「配球」になぞらえて理解していた。
野球に「なぞらえて」考えると、複雑なことが体感的に理解できる。わからなかったことが、「〇〇みたいだな」と気づいて、突然腑に落ちるという経験がたびたびあった。
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「構造主義」という考え方が出てきたのは20世紀のことだ。マルクスは社会を「会社」に喩えて説明した。ポスト構造主義には、例えばドゥルーズは「遊牧民」「根茎」、デリダは「郵便」というモデルを提示した。
社会構造から漫才ネタまで、何かを考えるうえで「なぞらえる」という手法はとても有効だ。どんな知のあり方が可能なのか?それは、「正しい"なぞらえるネタ"を持っているか」ということだ。「賢さ」とは「なぞらえるネタをたくさん持っているか」ということに他ならない。レトリックの領域の問題なのだ。
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