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どんな知のあり方が可能なのか(エッセイ)
千葉雅也さんと浅田彰さんの対談に、「どんな知のあり方が可能なのか」という言葉があった。
千葉 僕の『現代思想入門』が、そのような対立図式や倒すべき相手がいない時代に出たにもかかわらず一定の売れ行きを見せているのは、読者のみなさんが今の時代状況に何かしら危機感を抱いていて、どんな知のあり方が可能なのか探り求めているからだと思います。
(https://bunshun.jp/articles/-/56554?page=4)
「どんな知のあり方が可能なのか」。不思議な引っかかりがあって、心の中で10回唱えてみる。6回目あたりでだるくなってきて、何と言い換えられるのか考えてみた。「この時代には、どのような知のあり方が有効なのか?」「今の時代では、どんな性格のヒトが”賢い人物”なのか?」「この見通しの立たない現状において、知恵とは何か?」。質問をほぐして、すこしじっくり考えてみる。
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話は変わるが、昔から「野球」のことを考えることが多かった。
例えば、漫才のネタを書いていたこと。「1→2→3→4→5」という順序でボケを並べても面白くないネタが、「1→5→2→4→3」と並び替えると、急に面白くなることがあった。さらに"天丼"を盛りこんで「1→5→1→2→4→2→3」のように複雑にすると、ネタが格段に良くなったりする。同じものが順序を工夫することで意外性を演出すること。それを私は「配球」になぞらえて理解していた。
野球に「なぞらえて」考えると、複雑なことが体感的に理解できる。わからなかったことが、「〇〇みたいだな」と気づいて、突然腑に落ちるという経験がたびたびあった。
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「構造主義」という考え方が出てきたのは20世紀のことだ。マルクスは社会を「会社」に喩えて説明した。ポスト構造主義には、例えばドゥルーズは「遊牧民」「根茎」、デリダは「郵便」というモデルを提示した。
社会構造から漫才ネタまで、何かを考えるうえで「なぞらえる」という手法はとても有効だ。どんな知のあり方が可能なのか?それは、「正しい"なぞらえるネタ"を持っているか」ということだ。「賢さ」とは「なぞらえるネタをたくさん持っているか」ということに他ならない。レトリックの領域の問題なのだ。